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「世界遺産へ 沖ノ島の価値とは」(視点・論点)

國學院大學 教授 笹生 衛

去る5月、福岡県の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」について、ユネスコの諮問機関イコモスは、沖ノ島とその周辺の岩礁以外の除外を条件に、世界遺産への登録がふさわしいとの勧告を出しました。なかでも顕著な普遍的な価値として「沖ノ島は古代祭祀(さいし)の記録を保存する類いまれな『収蔵庫』」という点があげられています。そこで、いにしえの神の祭り、古代祭祀という視点から宗像・沖ノ島が持つ価値について改めて考えてみたいと思います。

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沖ノ島は、福岡県宗像市の北西、約60キロ、玄界灘に浮かぶ周囲約4キロの孤島です。島の南側、標高85メートルほどの場所に巨岩群があり、その岩上や岩陰などに古代祭祀の痕跡「祭祀遺跡」が残されています。

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そこは、現在も宗像大社の沖津宮が鎮座する場所です。本土に近い大島の中津宮と本土の宗像の辺津宮と、合わせて三宮に祀(まつ)る女神を“宗像三女神”と申します。
さて、沖ノ島の古代祭祀は、発掘調査の成果から、古墳時代の4世紀後半頃に始まり、平安時代の9世紀末期頃まで行われたと推定されています。

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4世紀後半という年代は、全国の祭祀遺跡の中で最も古い段階です。それから約500年、古代祭祀の痕跡が継続的に残され、その内容が発掘調査で詳細に明らかとなっています。この点は極めて重要です。
初期の4世紀後半の遺跡からは、直径約27センチの大型品を含む多数の銅鏡、鉄製の刀剣、碧(へき)玉製の腕輪、翡翠(ひすい)製の勾(まが)玉などが出土しました。同時代の古墳の副葬品と同じ品々です。

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続く5世紀代の遺跡では、銅鏡の数が減少する反面、鉄製の武器・武具・工具、祭祀用の鉄製模造品、鉄素材の鉄鋌(てい)が中心となります。祭祀用の石で作った模造品も加わり、祭祀の形は変化しました。

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6・7世紀には、飾り太刀や矛・盾、乗馬用の豪華な馬具、糸紡ぎの道具や楽器の琴などの金銅製の模造品といった、伊勢神宮の御神宝と共通する品々が捧げ物として整えられていきました。

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沖ノ島を含めた宗像三女神の祭祀が、国家的な祭祀として位置づけられていく歴史的な過程を反映していると考えられます。
実は、沖ノ島で祭祀が変化した5世紀、日本列島の各地で多くの祭祀遺跡が残されるようになります。そこではさまざまな品を供え、使用していた状況が、近年、明らかとなっています。

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刀剣・弓矢・矛・盾など武器・武具、鉄製の農具・工具、鉄鋌、鉄製の模造品といった沖ノ島と共通する品々に加え、実用の糸紡ぎや機織りの道具、楽器の琴、杵など食材の調理具、供え物を載せる机の「案」などが出土します。

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また、石製模造品の製作痕跡や簡単な鉄製品を加工する鍛冶の痕跡を確認できる遺跡のほか、出土した建築材から閂(かんぬき)で扉を施錠する高床式倉庫が建っていたと推定できる遺跡もあります。
このような祭祀遺跡の状況からは、祭で使う石製品や鉄製品、布類を製作し、神へのごちそうを調理して準備、それらを神へと捧げ供える祭祀を行い、最後に貴重な捧げ物を神のものとして高床倉庫などへ収納・保管するという一連の祭祀の流れを復元できます。この流れは、「古事記」「日本書紀」の「天岩戸の神話」が語る神祭りの様子や、9世紀初頭の伊勢神宮の記録「皇太神宮儀式帳」が記す古代祭祀の構成と一致します。
つまり、古代祭祀の基本的な構成は5世紀頃には成立し、その伝統は奈良・平安時代の8・9世紀へとつながったと考えられます。出土遺物で共通点が多い沖ノ島の祭祀遺跡においても類似した祭祀の流れを推定できるでしょう。

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一方、沖ノ島の祭祀では6世紀から7・8世紀にかけて黄金製の指輪、豪華な馬具、カットガラス碗(わん)、金銅製の龍頭、唐三彩の壺など特殊な品々が捧げられました。これらは、各時代に大陸や朝鮮半島からもたらされた最新・最上の品々でした。
沖ノ島の祭祀で神へと捧げた品々は、伝統を受け継ぐと同時に、海外からもたらされた最先端の文化・技術を象徴するものでもあったのです。この点こそ、沖ノ島における国家的な祭祀の特徴なのです。
それでは、古代の人々は宗像・沖ノ島の神を、いかに考えていたのでしょうか。

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宗像三女神は、「古事記」「日本書紀」では、天岩戸の前段、天照大神とスサノヲノミコトとのウケイという、やりとりで誕生します。そして、沖津宮などに「ます神」と書かれています。「ます」とは特定の場所に「居られる」という意味です。宗像三女神は、沖津宮の沖ノ島、中津宮の大島、辺津宮の宗像の海岸に居られる神々と考えられていたのです。

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宗像三女神の名は、「タゴリヒメ・タギリヒメノミコト」、次に「タギツヒメノミコト」、そして「イチキシマヒメ・イツキシマヒメノミコト」です。「タギリヒメ・タギツヒメノミコト」は、玄界灘の霧や激しい海流の動きに由来し、「イツキシマヒメノミコト」は、身を清め祀る島の女神という意味になるでしょう。玄界灘の自然環境の働きや、そのただ中にあり真水も湧く沖ノ島に特別な存在、神を感じたものと考えられます。
沖ノ島で大規模な祭祀が始まった4世紀。東アジアでは、中国の晋王朝の統一帝国が衰退・滅亡し、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が勢力を争うようになります。そのような中、日本列島の倭国と朝鮮半島との交通・交流は活発化しました。

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倭国の中枢部であるヤマト地域、奈良盆地から瀬戸内海を通り、朝鮮半島へ至る最短の航路を考えると、沖ノ島・大島・宗像の海岸は、中継地点や港湾という意味で重要な場所となります。その自然環境の働きに神を観じ、国家的な祭祀を行ったのが、宗像三女神の祭祀であったといえるでしょう。
近年、そもそも神は、人間の脳の認知機能、直感と深く関係するという考え方が説かれています。自然環境の特別な働きに、それを起こし、つかさどる行為者を直感的にイメージし擬人化する。これは、人類が進化の過程で得た脳の認知の働きであるとするものです。
日本列島の各地に残る、5・6世紀の祭祀遺跡は、宗像・沖ノ島のような海上交通の要衝のほか、水源、灌漑(かんがい)用水や河川の水辺、陸上交通の難所の峠など、生産・交通と深く関わる環境に多くが立地します。その環境の働きに行為者を直感し擬人化する。そして、貴重な品々を捧げ、ごちそうを供えて恵みを願い、環境がもたらす災害を防ごうとした。ここに古代以来の神祭りの本質があると考えます。宗像・沖ノ島の古代祭祀は、その本質を明確に示しているのではないでしょうか。
古代の神々への信仰・祭祀は、後に仏教の解釈が加わります。しかし、その本質は、現代へと伝わりました。沖ノ島を始め、宗像三女神の祭りの場が、現在まで守り伝えられていることが、何よりの証拠です。この背景には、四季の変化に富み豊かな恵みを与える反面、災害も多い日本列島の自然環境があると考えられます。
宗像三女神への信仰と祭祀は、沖ノ島・大島・宗像の海岸という環境と一体に伝えられてきました。そこには人間と自然環境との伝統的な関係を示す、人類の普遍的な価値があるといえるでしょう。

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