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「韓国新政権の経済再生課題」(視点・論点)

早稲田大学 教授 深川 由起子

韓国では5月9日に大統領選挙が行われ、共に民主党のムン・ジェイン氏が新大統領に就任しました。パク・クネ前大統領の弾劾、罷免からここまでの政局を主導したのは昨年10月末からの大規模市民集会でした。前大統領が昔からの知人を国政に関与させたり、経済的便宜を図ったりしたことは国民の強い怒りを買いました。しかしながら、ムン新大統領が「積弊一掃」を掲げるように、癒着事件の発覚と大統領本人もしくは家族の収監、といった事態は歴代政権でも見られ、パク政権が特別ではありません。任期途中での罷免にまでに至った背景には経済・社会的閉塞感の存在が指摘されます。

閉塞感は体感景気が悪く、苦境の出口が見えないことに起因します。様々な構造問題の積み上がりが雇用に集約されていることが体感景気を悪くしています。2002年以来、韓国の全体失業率は概ね3%台で推移しています。しかしながら、20年前の通貨危機以来、企業経営は短期収益志向を強め、頻繁な雇用調整へのリスクプレミアムとこれに強く反発する強硬な一部労組などで、正規職の賃金はOECDの中でも突出した上昇ぶりが続きました。この結果、正規職の数が減って非正規職が増大し、正規-非正規の賃金格差は拡大し、正規職でも同じ職場に留まれる年数において韓国はOECD中最も短い国となりました。韓国の実質経済成長率が潜在成長率の3%を上回ったのはここ5年で2014年の1度だけで、2017年の見通しも2.6%程度です。日本などに比べると高いようですが、1人当たりの国民総所得(GNI)は2016年まで10年も2万ドル台で足踏みしており、保守政権による「4万ドル時代」喧伝は国民の失望を買っただけでした。
労働情勢のしわ寄せを最も受けたのが若年層です。大企業正規職の数が限られるため、学歴競争が加重し、大学進学率は急上昇しました。若い世代は子供の頃から受験競争のみならず、英語留学やパソコンスキルの取得など厳しい競争社会を強いられてきました。しかし教育や就職の競争は画一的な競争で、結局、就職には親のコネがモノを言うようになりました。韓国行政研究院の設問調査では若年層の64%もが就職の不公平を訴えています。競争に耐えても、キャリア形成など社会的機会につながらない、という不満が強いのです。
しかも世界貿易の減速を受けて輸出が陰ると、パク政権下で景気を支えたのは唯一、不動産で、その価格は高止まりしたままです。不動産による資産効果はさらに格差感を助長しました。若年層にとっては就職や住宅購入、結婚、育児、よき友人といった「普通の幸せ」が贅沢品になってしまったのです。

雇用をめぐる将来不安は若年層のみならず、その親のベビーブーム世代に重くのしかかります。55歳にも満たない早期退職が定着する中で、2016年には突然、60歳定年制が一定規模以上の事業所に義務化されました。しかし、早期退職は労使協調が遅れ、多分に年功序列型で硬直的な賃金体系が変わらないことと平行して慣行化しました。賃金体系が変わらなければ企業には大きな負担が生じるだけです。しかもベビーブーム世代は就職難に喘ぐ子ども世代に加え、長寿化が進んで年金整備が追い付かなかった自分の親世代までを抱える例が少なくありません。韓国はOECD加盟国の中で最も長時間働き、さらに最も高齢になるまで働き続けていますが、相対的貧困率が突出しています。退職後の年金給付水準が低すぎるためですが、子どもや親を抱えたベビーブーム世代には早期退職後、なけなしの退職金を自営業に投じて失敗する例なども多く、自分の老後への不安も払拭できないのです。
大統領選挙中、さすがに焦点となったのは雇用問題でした。ムン政権は他の候補同様、最低賃金や年金給付の引き上げを約束する一方、行き場を失った若年層の応募が集中する公務員の81万人増員を公約してきました。しかし、政府が直接に雇用を増やすには限界があります。
正攻法は一つには構造調整や規制緩和、研究開発の効率化などによって成長戦略を強化することです。韓国は「財閥」への経済力集中度が高く、長年、政府支援を受けた「財閥」主導型の成長と、その支援が引き起こす癒着事件や中小企業の成長阻害といったジレンマに悩んできました。しかしながら、近年では量産型製造業に思い切って投資し、輸出拡大を図る韓国の成長モデルは中国という競争相手の登場で限界が見えています。他方、韓国は研究開発費では世界5位で英仏を抜き、IT関連やバイオなどのベンチャー創業への意欲は依然として高い水準にあります。前政権も中小企業支援に軸足を移しはしましたが、政府(政治)主導の政策スキームには無理が多く、ゾンビ中小企業が増え、ベンチャー企業への人材還流が進みませんでした。一方、日本の「産業競争力強化法」を模した法律も成立しましたが、大企業間の事業交換や共同化を通じた産業再編の例は多くありません。結局、政府支援=資金支援という発想を転換して非効率な規制を大胆に見直し、社会的安全網の下で構造調整を促して市場の潜在力に働きかけなければ、問題は解決しないのです。実はこの方向性は日本とも似ています。日韓は構造改革のアイデアを競い、産業・企業の生態系を共有する関係に転じるべき時期に来ているともいえるでしょう。
もうひとつは福祉の長期ビジョンを確立し、家計の不安を払拭することです。文政権が終わる頃にはベビーブーム世代はほぼ60歳代に入ります。1200兆ウォンを突破した家計債務は所得下位層による生計型債務、事業不振の自営業借り入れなど、最も社会的に脆弱な部分を含んでおり、今後は高齢化の影響を受けます。

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図が示すように家計の負債増加率(赤)に比べて可処分所得(青)の伸びは鈍く、その結果、収入に占める家計負債の比率は右肩上がりに増えています。教育費負担と住宅ローンを負った家計の債務返済には懸念が増大しているのです。新政権は米国の利上げを睨んで不動産価格の軟着陸に細心の注意を払いつつ、持続性のある年金や医療制度の設計で将来不安を和らげることが重要です。将来収入見通しの明確化は住宅不安の解消や個人消費の活性化、ひいては重要な自営業の健全化にも好循環を生み出すでしょう。
ただし、福祉は膨大な財源を必要とします。韓国の財政はOECD加盟国の中では健全な方ですが、日本の消費税に相当する付加価値税は既に10%で、内需が凍り付く中での引き上げは困難です。しかも先進国が引き下げに向かう中で韓国だけが法人税を上げれば立地競争力は削がれ、投資鈍化のリスクもあります。残念ながら大統領選では即効性のある雇用対策ばかりが関心を集め、構造改革と成長戦略重視か、福祉重視か、そのバランスをどうするか、といった大きな議論ができませんでした。政治の役割は国の在り方を問い、政策の優先順位を決めることです。ムン政権の国民和合は正しいメッセージですが、経済再生のためにも合意形成は欠かせないといえます。

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