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「憲法施行70年①『憲法への意志』」(視点・論点)

東京大学教授 石川健治

70回目の憲法記念日を迎えました。決して平坦ではなかった戦後史のなかを、日本国憲法が風雪に耐えて生き抜き、人間でいえば古稀を迎えることができたのは、素直に喜ばしいことだと思います。今日は、憲法研究者の立場から、現在の憲法論議の基本構図についてお話し、今後の展望にも言及したいと思います。

1.分離国家としての立憲国家
戦後の日本がめざした立憲主義的な国家には、幾重にも分離線が張り巡らされています。

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第1に、市民的権力と軍事的権力の分離があります。いわば政と軍の分離です。第2に、世俗的権力と宗教的権力の分離、あるいは国家と宗教団体の分離があります。政権と教権の分離という意味での政教分離ですね。第3に、そうした政治的権力の内部で、立法・行政・司法の三権を分離する分離線があります。これは有名な三権分立ですね。第4に、政治的権力と経済的権力の分離があります。いわば政権と金権の分離ですが、公法と私法の分離といわれるものも、これにかかわります。そして、第5に、公共生活と私生活の分離があります。第4と第5の分離線を縮めていえば、公私の分離ということになります。

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政軍の分離、政教の分離、三権の分離、公私の分離、これらの分離線によってまもられているのは、一人ひとりがかけがえのない、個人の自由です。

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日本国憲法の13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と高らかに宣言しているのです。
しかし、分離線は、放っておいても維持されるものではありません。それを乗り越えようとする力と、それに対抗する力とが拮抗してはじめて、分離線は維持されます。分離線が維持されているとすれば、そこには「権力への意志」に対抗する「憲法への意志」をもつ力が存在しているからにほかなりません。この点を、少し歴史を遡ってみてみることにしましょう。

2.戦争の子、負けいくさの子
「日本国憲法は、戦争の子です。しかも、負けいくさの子です」――これは、かつて東京大学で憲法を講じた宮沢俊義の言葉です。1945年8月15日の敗戦によって、国家改造を余儀なくされた結果の憲法だからです。しかし、同様に、軍事力に屈服して国家改造を強いられた経験が日本にはあります。それは、黒船来航によって「開国」を強いられ、非西洋社会にはなじみのない法律制度の受容を余儀なくされた、幕末から明治期にかけての経験です。
日本は当時、対等の条約を結ぶ資格のある「文明国」とは認められず、「半文明国」として不平等条約を結ぶことを強いられました。「文明国」であるためには、西洋ふうの立憲主義に基づく憲法をもつ必要がありました。しかし、これに対する反作用として、尊皇攘夷すなわち天皇中心主義と排外主義の考え方が浮上し、水戸の浪士たちが桜田門外の変を起こしたのはよく知られています。日本における憲法の歴史は、ここから始まる文化摩擦の歴史です。
そのひとつの帰結が、日本古来の国体という魂と、近代立憲主義の魂とをあわせもつ、大日本帝国憲法です。当然この憲法は、その後も、国体思想と立憲主義のつなひきの対象となりますが、明治末年1912年頃には、絶対君主主義が退けられ、立憲君主主義の優勢が確立しました。しかし、それと並行して、憲法体制における地位を確立したのは、日露戦争の勝利をもたらした軍国主義です。この戦勝が、1911年に、不平等条約の解消という悲願を達成させたのです。そして、それは、1910年の韓国併合を通じて、植民地主義という難題を憲法学にもたらすことになりました。他方で、同年は大逆事件の年でもありました。これにより、反政府運動はいったん勢いを失いますが、1913年には大正政変が起こります。この大正政変は、憲政擁護運動という立憲主義の運動の成果であるだけでなく、帝国議会を取り巻く民衆のエネルギーと立憲主義が直面する機会にもなりました。
民主主義の要素を取り込んだ立憲主義が、大正デモクラシーを演出し、軍国主義・植民地主義の問題を抱え込みながらも、政軍・政教・公私の分離線をどうにか維持できたのが、その後の20年ほどの期間でした。けれども、1935年に入ると、天皇機関説事件で、立憲主義の支柱だった美濃部達吉の学説が弾圧され、2度にわたる政府の国体明徴声明が出されました。勢力を逆転した国体思想が、政軍・政教の分離線を乗り越えて軍国主義・植民地主義と結びつく一方、文部省のいう「国体の本義」が、公私の分離線を乗り越えて、私生活に浸潤してゆくことになりました。
その間、立憲主義の分離線を乗り越える口実となったのが、北東アジアにおける対外危機の言説です。「危機」は、法の例外をつくる、緊急事態です。1931年の満洲事変以降、戦争が泥沼化するなかで、この例外的であるべき「危機」が常態化しました。こうしたなかで分離線が決壊したのです。そこから国が滅ぶまでは早かった。
そこに、第2の黒船来航、第2の開国ともいうべき占領期がやってきます。植民地は、沖縄を含めて切り捨てられ、軍国主義やそれと結びついた国体思想も排除されます。立憲主義の分離線が強制的に回復される。それが日本国憲法の制定過程です。日本国憲法は「普遍的政治道徳」としての立憲主義に全面的に帰依した憲法です。その分離線が曲がりなりにも70年間維持され、「自由のもたらす恵沢」を継続的に享受できたことは、やはり喜ばしいことだというべきでしょう。

3.「憲法への意志」
けれども、「人類普遍の原理」の名のもとに政治空間から排除された一連の言説や勢力は、日本国憲法を敵視するようになります。これは、第一の開国以来、日本の精神史における基本パターンを踏襲しています。それらの排外的な国体思想は、公共空間から排除された現状を打破すべく、戦後の改憲論議の原動力となりました。そして、憲法を敵視する余り、憲法の根幹をなす立憲主義をも押し流しかねない危険を孕んでいました。
それにもかかわらず、立憲主義の分離線が破られなかったのは、それを支える「憲法への意志」が、日本社会に対抗力として存在していたからにほかなりません。特に占領期につくられたために、ナショナリズムのパッションを動員しにくい、日本国憲法です。それにもかかわらず強力な支持者を見出だせたのは、9条の平和主義の理念が「戦争はもうこりごり」という国民感情に受け容れられ、政軍関係を中心に分離線を支えてきたからに違いありません。
今日において問題となるのは、70年目の憲法が、依然として左右両極におけるプラスとマイナスの「憲法への意志」に支えられているのか、それとも本格的な「憲法への意志」がメインストリームに育っているのか、でしょう。後者であるとすれば、憲法論議の機は熟したことになりますが、残念ながら、政治的中道に目立つのはニヒリズムやシニシズムであり、憲法改正への意志は、依然として「日本国憲法への敵意」のなかにあるように見受けられます。往々にして、立法過程や憲法改正過程は、強い選好をもつ少数派に、特に問題意識をもたない多数派が引きずられる構造になりがちです。立憲主義の根幹を保ち得るだけの本格的な「憲法への意志」を見出だせたとき、本当の意味での改憲論議に着手できることになるでしょう。

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