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「妊産婦のうつ病を防ぐために」(視点・論点)

神戸女子大学 教授 玉木 敦子

2016年4月、自殺で亡くなった妊産婦が東京23区では過去10年間に63人だったと発表されました。出生10万人あたりでは8.7人となり、これは出血などによる妊産婦死亡率の約2倍で、またイギリスやスウェーデンの妊産婦自殺率よりも2倍から4倍近く高いという衝撃的な結果でした。

これまで、自殺の重要な要因にうつ病などの精神疾患があることが明らかになっています。今回報告され63例についても、妊娠中に自殺した人の約4割、また産後に自殺した人の約半数が何らかの精神疾患と診断を受けており、そのほとんどはうつ病でした。
妊婦と産後の母親のうつ病り患率については、報告によって差はありますが、それぞれ約1割と考えられています。つまり毎年およそ10万人の妊産婦がうつ病にり患していることになるのです。
うつ病になると、ほとんど1日中、気分が落ち込むだけでなく、食欲や睡眠の障害、疲れやすさ、思考力・判断力の低下、自責感などの症状がみられます。妊産婦の場合は、うつ病によって育児や家事が思うようにできなくなり、そのことで、さらに自分自身を責めたり、落ち込むといった悪循環になりやすいとも言われています。
自殺に至らなくても、うつ病が女性自身に与える苦痛は計り知れず、また生活や育児も大変困難になります。さらに母親のうつ病が乳児や胎児の発達にも影響を与えることがわかってきました。
妊産婦の自殺を防ぐために、また妊産婦自身の健康な生活と子どもの健やかな成長を促すためにも、まずはうつ病を予防することが重要です。

そこで今日は妊産婦のうつ病予防のポイントと課題についてお話したいと思います。
うつ病予防のポイントとなるのは「安全」、「安楽」、「安心」であると考えます。つまり、「安全」な環境の中で、できるだけ身体的「安楽」を保ち、「安心」しながら妊娠期や産後を過ごすことが、うつ病の予防につながると考えられるのです。しかし、現代はこれらが大変難しくなっています。

まず「安全」という点についてです。
子どもの命を守り、育てることは大変なことですし、とても大きな責任を伴います。そもそも母親がたった一人で担いきれるものではありません。しかし、現代において、母親の孤立は大きな問題となっています。自宅で赤ちゃんと2人きり、閉じこもった生活をしている母親は少なくありません。そのような生活では、母親はほとんど1日中気を抜くことができない、つまり「安全」とは相反する状態です。
たしかに高度成長期も夫は忙しく、育児は母親中心だったかもしれません。しかし、当時は少子化社会ではありませんでした。身近に母親仲間が存在し、またコミュニティーの結びつきも今より強いものだったので、母親や家族だけでなく、近所の大人や年長の子どもが共同して子育てを行っていたのです。現代ほど母親一人に子育ての責任や負担が集中している時代はなかったのではないでしょうか。
次に「安楽」という点についてです。
妊娠期や産後間もない頃は、ホルモンバランスや身体の急激な変化があり、また産後は睡眠不足が続くため、どの妊産婦にとっても身体的安楽を保つことは難しいものです。

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さらに近年は図に見られるように出産時の年齢が高くなってきています。そのことによって、妊娠合併症をもつ人の割合や出産後の身体的疲労が増していると考えられます。
母親の身体的安楽のためには、夫からのサポートが必要でしょう。

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しかし幼い子どもをもつ日本人男性の家事・育児に費やす時間は先進国中最低水準にとどまっており、また1歳未満の子どもがいても育児についてほとんど何もしない夫が半数以上を占めるという結果も報告されています。夫の育児休暇の取得率もなかなか上昇しません。

祖父母、つまり自身の親からのサポートはどうかというと、出産時の年齢が高くなれば、祖父母も高齢になりますので、そこからのサポートも以前より望めなくなってきています。中には介護と育児を両立しているケースさえあります。
次に「安心」についてはどうでしょうか。最近20年の間に育児不安が上昇したという調査結果もあり、不安を抱えながら子育てしている人はますます増加しているように思われます。
その背景には少子化があるでしょう。

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図に示されている通り、出生数は1970年代前半の約半数になっています。少子化によって、子どもや子育てを知らないまま母親になることが普通になり、また身近に子育て仲間を見つけることも困難になります。

私たちが携わった調査では「相談仲間がいない」と答えた母親は約2割に上っていました。これは大変心配な状況です。さらに相談仲間がいない人はうつ傾向が強いということも示唆されていました。物理的に孤立しているだけでなく、心理的にも孤独が増しており、そのことがうつ病に影響しているかもしれないのです。
これまで述べてきたように、妊産婦を取り巻く環境は近年急激に変化しており、妊産婦自身の努力だけではどうしようもない状況にあります。このことを社会全体で理解する必要があります。母親だけが育児するのではなく、父親も参加し、社会もサポートする、それは人間本来の育児のあり方ですが、現代はそのための意図的な取り組みが必要とされているのです。

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表に示したように、すでに各自治体や一部の産科では、妊産婦を対象としたさまざまな支援が行われています。ただし、地域や病院施設よって取り組み方に差がみられるため、さらなる充実が求められます。また今後は支援の「質」を問うことも大切になるでしょう。その支援は妊産婦の安心につながるものか、本当に使えるものか、本当に役立つものなのか、という見方です。
たとえば質問紙を用いた産後うつ病のスクリーニングは、それによって支援の必要性を早期に把握し、速やかに必要とされる支援につなぐことが可能になるなど、とても有効な方法です。

しかし過去に産後うつ病を経験した母親を対象として私たちが行った調査の中で、点数が高くなると「ダメな母親だと思われるのではないか」あるいは「虐待を疑われるのではないか」と不安に思い、質問紙に正直に回答しなかったという声も聞かれました。スクリーニングを行う際には母親が安心して回答できるよう、常に細やかな配慮と工夫が求められます。

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また産後ケア事業は、産後の母親が心身を休めながら、授乳やもく浴などの育児技術を身につけられるよう、助産師などの専門家がサポートするもので、大変有用な支援です。

しかし高額なため、若い世代にとって利用しやすいものとは言えません。一部地域には助成制度があるものの、産後ケアを必要とする人が必要なだけ使えるには至っておらず、したがって国や地域からの支援がさらに必要でしょう。
人は自らの健康を守り、回復する力を持っています。その力を引き出し、高めるのが「安全」、「安楽」、「安心」です。
妊婦や産後の母親は一方的に守ってあげなければならない弱い存在ではありません。その人が本来持つ力を十分に発揮できるように寄り添い、支えることが、何より効果的なうつ病予防になるのではないかと思います。

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