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「奇想の画家 雪村の謎と魅力」(視点・論点)

東京藝術大学大学美術館 准教授 古田 亮

雪村という名の画家をご存知でしょうか?
雪村は知らないけれど、雪舟なら聞いたことがあるという方も多いのではないかと思います。どちらも、室町時代に活躍した水墨画家ですが、雪舟は雪村よりもひと世代前の画家で、京都や中国地方を活動拠点としていました。一方の雪村は、ちょうど、井伊直虎とほぼ同じく、戦国の時代に生きた画家で、関東から東北地方を点々と移動しながら活動しました。したがって、雪舟とは直接的な関係はありません。ですが、雪村は東日本にまで名の知られた雪舟のことを強く意識して、自ら雪村と名乗ったのだと考えられています。

雪舟の絵は、中国画を手本とし、京都の禅宗文化から生まれました。雪舟に学んだとされる雪村ならば、絵も雪舟そっくりなのかと言えば、決してそんなことありません。むしろ、正反対の傾向を示すと言ってもいいくらいです。江戸時代には画家の神様のように崇(あが)められた雪舟が「正統、規範」だとすれば、雪村は「異端、奇想」の画家といってもよいでしょう。
奇想といえば江戸時代中期の画家、伊藤若冲が近年注目を集めています。美術史家の辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、江戸時代に登場した破格の画風を持つ画家たちに対して「奇想」と名付けました。「奇想の系譜」という著書を執筆する際に辻氏は、雪村をこの系譜の始めに位置付けたいという構想があったのだといいます。雪村こそが、奇想の原点というわけです。
雪村の代表作《呂洞賓図(りょどうひんず)》を見てみましょう。龍の頭に乗り、天空の龍と向かい合う呂洞賓という仙人を描いたこの作品、たいへんエキセントリックな印象を受けます。首の骨が折れるくらいに見上げた顔。ぎょろっとした目、眉毛に鼻毛に、ぴんと伸びたあご髭(ひげ)。手に持った壺(つぼ)は今まさに蓋(ふた)が開けられて中から子どもの龍が2匹、烟(けむり)のように立ち昇ります。猛烈な風が吹き荒れ、波が逆巻きます。かつて、呂洞賓をこのような図像に描いた例はなく、いったい何をしているところなのか、説明困難と言わざるを得ません。そこが奇想なのです。
一口に奇想と言っても、その表現の方法は画家一人ひとり、まったく違ったものであり、《呂洞賓図》のような雪村画の場合は洗練された若冲よりも、豪放な曾我蕭白(そが・しょうはく)により近いといえるでしょう。しかし、雪村画の特徴は奇抜さや大胆さばかりではありません。

《蔬果図(そかず)》を例にとりましょう。じゃれ合っているかのように重なり合うウリとナス。くるくると、ねじれながら上方に伸びているのはウリの蔓(つる)です。繊細な描線は隅々にまで行き渡っていて、それを目で追っていくと、ますますこの絵のなかに引き込まれていきます。雪村の、身近なものへの優しい眼差しを感じ取れます。
竹林に遊ぶ七人の賢者を描く伝統的な画題は、通例では老賢者たちが静かに語り合う姿に描かれます。ですが、雪村の《竹林七賢酔舞図》では、呑(の)めや歌えのどんちゃん騒ぎに描かれています。指先から足先まで、雪村の酔っ払い観察は見事です。決まり切った様式ではなく、実感をこめた親しみやすい描写を見て取ることができます。
こうした、繊細さやユーモアを含んだ幅広い画風が、いったいどこから湧き出てきたのかを美術史的に説明することは、きわめて難しいと言わざるをえません。また、そのユニークさ故に、没後は流派として受け継がれることもありませんでした。それが雪村を雪舟の影に隠してしまった理由のひとつではないかと思います。

謎の画家と評される雪村ですが、その理由は、何よりも伝記が不詳であることに由来しています。生没年すらわかっていないのです。それどころか、雪村が自ら記した手紙類はもちろんのこと、雪村の足跡を知る一次資料も何一つありません。そのかわり、室町時代にはめずらしく、自画像がのこされています。
雪山を背景にした晩年の自画像です。そえられた自作の漢詩は、山や川が白一色になった雪の晩に友を訪ねるが、家から立ちのぼる煙を見て興が覚め、月夜に船を引き返したというものです。雪村がこれを自画像にたくした意図は何だったのか。明快な答えは得られませんが、長年画家として生きた人生への自負と同時に、一抹の孤独さも感じさせます。
実は、この雪村が弟子たちのために説いてこう語ったという画論が江戸時代後期になって「発見」されていました。同時代に雪村のことを語った唯一の文献とされてきた、この『説門弟資云(せつもんていしうん/門弟の資するに説いていわく)』がそれです。自分は長年雪舟に学んだが画風は隔たっている、とまことしやかに書かれたこの画論。竹筒に入ったまま世に知られていなかったものを親族から借覧して筆写したものだ、と申し出たのが石川大浪という画家でした。そして、これを世の中に喧伝したのが谷文晁、酒井抱一といった当時たいへん著名な画家たちでした。しかし、近年の研究ではこの画論は彼らが捏(ねつ)造した偽書であると結論づけられています。何のために、そこまで手の込んだ雪村史料をつくる必要があったのか、そのことも謎のひとつとなっています。

謎といえば、琳派の大成者、尾形光琳と雪村との関係にも不思議な点が数多く見られます。
光琳の最晩年の傑作《紅白梅図屏風》の構図は、雪村の描いた《欠伸布袋図》とたいへんよく似ています。これは、単なる偶然ではなさそうです。江戸にやってきた光琳が、豪商や大名家に伝わる室町時代の水墨画を見て、自作に取り入れたことは確かですが、なかでも雪村は特別な存在であったらしく、雪村作品の忠実な模写が残るばかりか、雪村が使用した印章とそっくりな「雪村」印を所持していました。
この印影は、実際に雪村作品に捺さ(お)れたものとは微妙に異なっており、光琳が模してつくったのではないかと推察されます。光琳はなぜ、偽印までつくって雪村画を模写したのか。装飾性豊かな光琳画とは、一見、無関係に見える雪村の水墨画との接点はどこにあるのか。疑問は深まるばかりです。
唯一あきらかなことは、光琳が雪村に魅了された画家のひとりであったということです。雪村の魅力とは、大胆で奇抜な表現、すなわち奇想にあるばかりではありません。小さな命にまで心を配る濃(こま)やかな表現や、自然への優しい眼差し、そしてユーモアなど、見るものを惹(ひ)きつけてやまない魅力が、雪村画には満ちています。光琳にはじまり、谷文晁や酒井抱一たちも、そうした雪村芸術の真髄に触れて、オマージュを捧げた結果、むしろ雪村を謎めいた画家にしてしまったのかもしれません。

現在、東京藝術大学大学美術館において、5月21日まで、「雪村 奇想の誕生」という展覧会が開催されています。今、ご紹介した作品を含む雪村の作品を一堂に集めた、15年ぶりの大規模な回顧展です。雪村の絵をまとめて見るのははじめてだ、という方も多いのではないでしょうか。しかし、むしろ、雪村の魅力とは、はじめて見る方々でも面白いと感じるところにあるのです。
禅宗美術だからと言って、決して難しく考える必要はなく、ただ素直に雪村の描き出した世界に浸り、体感しさえすればよいのです。そこから、雪村の新たな謎や魅力が見出されることを、期待しています。

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