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「人々はなぜ「むら」に住み続けるのか」(視点・論点)

上智大学 准教授 植田 今日子

日本で「むら」や集落といって思い浮かぶのは、どのようなイメージでしょうか。
のどかで自然が豊かというイメージを抱く人もいるかもしれませんが、よく耳にする「限界集落」という言葉から、人が少なくて高齢者の多い「何にもないところ」と捉えている人も少なくないでしょう。今日お話しするのは、そんなむらや集落が、どうして日本のあちこちで長らく築かれてきたのか、その理由についてです。

「むら」と聞いて、地方自治体の市町村の「村」と思う方がいるかもしれません。しかし集落や部落などと呼ばれることの多い、小さなむらのことです。厳密には集落とむらは同じではありませんが、今日は集落の統計にも触れながら、むらと重なるものとしてお話しします。
農村社会学では、むらはそれぞれの家で賄いきれない仕事を、補い合う組織と捉えられてきました。

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その主な役割は「資源管理機能」、「生産補完機能」、そして暮らし一般を互いに支え合う「相互扶助機能」と呼ばれています。どんな人や家も、生まれてから死ぬまでずっと、幸福で難なく過ごせるということはなかなかないのが常でしょう。地震、火事、洪水、津波など、自然災害に直面して、困難な状況を切り抜けなければならないときもあります。むらはそんな、どの家でも直面する局面を、家単独ではなく、組織的に受け止めようとする生活共同体といえます。南北に長い日本のむらには、それぞれの生活史に彩られた個性を持つ、むらや集落があるといえるでしょう。しかし日本の集落は今、総じて元気があるとは言えない状況です。

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これは平成22年に国土交通省と総務省が発表した日本の消滅集落の統計です。当時、10年後に予想された消滅集落の数は452でした。しかし、5年後の平成27年に確かめてみると、消滅したのは190集落であったことがわかります。それでも平成27年に改めて調査された10年後の予想消滅集落数には、やはり悲観的な展望が持たれていることが確認できます。

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こちらは、平成22年から5年間に消滅した190の集落の分布です。2011年の東日本大震災をまたいでいることから、東北圏での集落数の減少に、震災が拍車をかけたことがわかります。
一方で調査からは、興味深い側面もみえてきます。

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人口増減率と集落増減率は、かならずしも連動しているとは言えないことです。つまり人口が減っても、必ずしも、それが集落の減少に直結していないことが確認できるのです。集落はどんどん減っていくように思えます。しかし高齢化や人口減少に悩みながら、なんとしても存続を図ろうとしているむらや集落もあることに気付かされます。
実際に私はこれまで、存続が難しくなってしまった集落を訪ね歩いてきました。ダムの水没予定地と化してしまったり、大規模な自然災害に見舞われてしまった土地です。それでもなんとか集落を存続させようと奮闘していた人たちを訪ねてきました。それは集落を「必要」としていた人たちの声から、むらとは何かを考えることでもありました。そこには、一見理解しがたい光景が広がっていました。
たとえば2004年の中越地震の後、旧山古志村には全村避難の指示が出されました。14あった集落の全てが孤立しました。「角突き」と呼ばれる国の重要無形民俗文化財の「闘牛」でも知られる山古志では、肉牛や乳牛を飼う人たちが少なくありませんでした。やむなく牛を残して村外に避難することを余儀なくされました。しかし結果的に、生き残っていた900頭ほどの牛を全て助け、村外へと運び出しました。当初は徒歩で牛を助けに行っていた牛飼いたちがいましたが、後にヘリコプターが加勢して、牛が運び出されました。
不可解なのは、自分たちが避難所にいる段階で、牛を助けようとしていたことです。肉牛はすべて売り抜かれました。そして闘牛を預かることを申し出た村外、県外の人たちにも助けられ、全村避難のなか、例年通りの日程で闘牛が行われました。村外の公園には仮設闘牛場もあつらえられました。

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国指定の重要無形民俗文化財ではありましたが、なぜ被災から約半年後に闘牛を行う必要があったのでしょうか。
牛飼いの人たちは、「伝統を守るためだった」とは言いません。当時の闘牛に関わった方の語りです。

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「これはうちらが伝統文化を守って、仮設(住宅)のなかでも自分たちのむらがどうなるか分からんときにも守ってるんだっていう思いは、ある意味思い上がりかなっていうか、このことで力をもらってるっていうか。それぞれの地域っていうか地方っていうか集落っていうか『角突き』じゃなくてもいいことやね。そういったのっていうのは人間が窮地に立たされたときに支えになるものなんだなっていう思いがまあ、生まれてきたよね。『牛はどうなるか分からんけども』なんていってたら今の姿があったかなっていうね。こんななかでも『角突き』できたんだから、その気になればやれないことはないなって広がっていくわけじゃないですか。ああやっぱりその、牛たちを守るんじゃなくてそういうふうに文化に守られてるのかなっていう感じだわねえ。」
被災から半年後に闘牛を行ったことは、「来年の角突きは」、「再来年の角突きは」と、いつも通りのことができなくなっていた人たちにとって、被災後の見通しを明るくすることになっていました。震災の後、全村避難指示も出されるなか、来年、再来年、自分たちがどこでどう暮らしているかわからないような、先の見えない「直線的な時間」が流れ始めます。

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しかし山古志で毎年行われてきた闘牛を行うことは、「回帰的な時間」を再び紡ぎ始める定点をつくることにもなっていました。2004年の震災から6年を経た頃、旧山古志村の人口は、震災前年の約半数(2222名から1181名)にまで減少しました。しかし特別豪雪地帯でもあった山古志に帰って、集落を維持しようとした人たちも確実に存在していたのです。
むらや集落は小さくても、数百年の歴史をもっている場所は少なくありません。なぜ人は同じ場所に何世代も超えて住み続けてきたのでしょうか。一世代だけが生き延びるためではなく、そこに今後も暮らそうとする人に、有効な生存戦略を伝えるための容器をつくりだすためであるようにも思えてきます。一人の人間が一生の時間を費やして経験できることは、多くありません。むらは家や世帯が集合的に困難を分け合ったり、受け止めたりするものと捉えられてきました。くわえて、長く住みつづければ、人の一生をしのぐ長さの経験を後世に運ぶこともできます。
人口減少や高齢化の進む「何もない」集落は、インフラの維持にコストを要し「経済効率が悪い」とか「いずれ移住すべきだ」とする考え方があります。確かに豪雪地帯や中山間地域でのインフラ整備には、高コストという問題はあるのでしょう。しかしそこに「何もない」のは本当でしょうか。もしかしたらそこに何があるのか、見えていないからではないでしょうか。暮らさなければ見えてこない海、川、山の幸、水源、そして大きな危機に見舞われても生存の術をつないできた容器が、そこにあるかもしれません。

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