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「雛祭りと雛人形」(視点・論点)

大妻女子大学 准教授 是澤 博昭

 3月3日は雛祭りです。お嬢さんの健やかな成長と幸せを祈って、雛人形を飾ったご家庭も多いのではないでしょうか?普段はあまり語られることのない雛祭りの成り立ちをお話ししてみたいと思います。

 雛祭りは、平安時代から続く古い日本の年中行事というイメージがあるのですが、その確立は意外と新しく、江戸時代も半ばを過ぎた18世紀中頃のことです。その起源はいろいろな説がありますが、貴族の女児が遊ぶ「ひひな遊び」と紙のヒトガタなどを水に流し厄を払う「上巳(じょうし)の祓(はら)い」などが、いつの間にか溶け合って雛祭りが成立したと考えられています。ただし、3月3日に女児の誕生を祝う行事として、雛人形をかざるという記録があらわれるのは、江戸時代に入ってからです。

 今日のような雛祭りが庶民の間にひろがるのは、いつごろからなのでしょう。今から300年以上も前の17世紀後半の本の絵をみると、床の間などの平らな場所に雛や雛道具が置かれていることが分かります。

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 江戸時代初めの雛祭りは、雛道具を中心とする今日の人形遊び、つまり雛遊びであった、と考えられています。後に、ここに女児の誕生を祝うという意味が込められてくるのです。

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 では今日の雛祭りを構成する3つのキーワード、
(1)3月3日
(2)雛祭りという言葉
(3)女児の誕生を祝う行事
が成立するまでをみることで、雛祭りが民間に浸透する時期を推測してみましょう。
(1)は各時代の「俳諧歳時記」の分析などから、17世紀を過ぎた頃、雛遊びが3月3日の定期的な行事となっていたことがわかります。「雛遊び」から「雛祭り」という語の変化は、18世紀初めの書物あたりからみられますが、それでもまだ「雛遊び」という言葉が多く、「雛祭り」が主流となるのは、18世紀中頃から後半のことです。
では、(3)の「女児の誕生を祝う行事としての雛祭り」が確認できるのは、いつ頃からでしょう。

 今から275年前の「絵本和泉川」という本には、乳飲み子を抱いた母親の傍らで雛遊びをする娘たちが描かれています。


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 その絵の上段に、「女の子ばかり生まれてきたので、次は男の子だと思い五月の幟(のぼり)の準備をしていたが、また女児を授かった、と苦笑いしながら父親が雛を飾る場所を広げた」、という意味のことが記されています。ここから女児の誕生と雛祭が結びついていたことがわかります。

 以上の事をまとめると、民間では17世紀中頃を過ぎたあたりから「雛遊び」は三月の節句行事となりはじめ、18世紀頃を境に雛道具を中心にした「雛遊び」から、雛人形を飾り楽しむことを目的とした人形祭りの要素を強めます。18世紀中頃には、「雛祭り」という語が定着し始め 、女児の誕生を祝う行事になり、名実ともに現在のような形を整えたことがわかります。つまり雛祭りが庶民の間に浸透するのは、8代将軍吉宗(1684~1751) の最晩年の頃です。

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 それと同時に、雛人形もヒトガタに似た立雛から坐った姿の雛人形が主役になり、広い台を設けてその上に雛や道具をならべるようになり、それを二段、三段にする家もあらわれるなど、町の雛祭は年々派手になりました。これに対して幕府は「雛人形は8寸(約24センチ)以上の大きさはいけない」というお触れを繰り返しだすまでになります。

 それでも18世紀の初めの庶民の雛飾りは、まだ質素なものが多かったようですが、その後、派手な雛飾りが町に流行しはじめました。禁制は無視されぜいたくなつくりの雛人形などが町にあふれていたのです。そのぜいたくを徹底的に取り締まった「寛政の改革」 が、皮肉にも江戸の雛文化をさらに発展させます。

 その取り締まりの様子を少しだけ、のぞいてみましょう。

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ご覧頂いているような、雛市という雛人形を購入する人々でにぎわう町が舞台です。「雛仲間公用帳」という当時の業界の記録によりますと、寛政2年 (1790)2月27日の昼時のことです。

 雛市に南町奉行所の役人があらわれます。彼らは一通り雛市を見回り、店頭の商品などをちらりと見ただけで、何事もなかったかのように帰ります。しかしそれは彼らの作戦でした。帰ったと見せかけて、また戻ってきたのです。

 これにすっかりだまされたのは「東や」という雛屋さんです。別の場所に隠していた禁制の雛を、のこのこ店に持ち帰ったところを、御用となりました。またある者は、役人をみてあわてて禁制の雛を隠したのですが、すでに一巡目で目をつけられていたらしく、「先ほどの雛はどこだ」と問い詰められ、「今売れたところです」と、とぼけてはみるのですが、家宅捜査の結果、見つかり御用となります。

 物置ではかえって危ないとでも思ったのでしょう。山田屋さんは、役人の裏をかいたつもりで、堂々と土蔵の前に板をかぶせて隠していました。平松屋さんは、店の2階の取調べ中に物干しから鍵のかかっている秘密の部屋を発見されてしまいました。

 もっとも商人だって負けてはいません。雛人形のことなど、よくわかりもしないのに、高さばかりにこだわる役人の目をからかい、あざむくために、策略をめぐらします。
「ぜいたくな人形や道具はいけないと言っているが、モノの良し悪しなど役人に判断できるはずがない。よし今度は小さく手の込んだぜいたく品を作ってやろうじゃないか。」
 江戸の町には、地味で落ち着いた味わいのある人形や小さく、精巧な雛や雛道具が流行し始めます 。さらに、そのこだわりはエスカレートして、価格が家よりも高い小さな雛道具や象牙の頭を持つ雛人形、銀やガラス製の雛道具など、さまざまな工夫が生まれます 。そしてその人気は身分を越えて広がり、規制した側の大奥や大名など武家の夫人や娘まで虜にしてしまいます。

 3月の雛飾りは、子どもの健やかな成長への“願いと祈り”を礎にして、それに“遊び心”や“美意識”、時には“権力への反発心”などが複雑に絡まりあって形成されました。ここには、世界でもまれな人形文化を形成する日本人の心性が凝縮されているのです。

 現代社会では、医療技術の進歩により、基本的には、身体面での子どもの健やかな成長を雛人形に託す必要はありません。ただし育児不安などの心の面では、子どもを巡る諸問題は、ますます混迷を深めています。節句飾りに込められた子どもの健やかな成長への願いは、時代とともにその必要性の形を変えながら、連綿と続いているのです。科学技術の進歩で解決できることとできないことがあることを、私たちはうすうす感づいています。心身ともに子どもの幸せを願う人々の思いは変わりません。変わるものと変わらないものとは何か、本日は雛祭りを通して考えてみました。

 かつて、雛祭りは、近隣の人々や親類縁者など地域社会全体が交流する機能を担っていました。周囲の大人たちが子どもの誕生・成長を見守り祝福することで、世代を越えて団らんを持つことの意義を、あらためて顧みる必要があるのではないでしょうか。



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