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「詩人学者・折口信夫の世界」(視点・論点)

文芸評論家 持田 叙子

ことし二月、生誕130周年を迎えた折口信夫。
明治二十年、一八八七年に大阪府の西の郊外、木津村に生まれました。近代の日本ではまれな詩人学者として知られます。
折口は、釈迢空という筆名をもつ歌人です。小説も書きます。前衛的な詩人でもあります。
一方、民俗学者であり、国文学者です。

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こうした存在を日本近代文学史のなかで見回すと、衛生学の医者であり、創作活動をさかんに行った森鴎外くらいしか他にいません。
しかし鴎外との大きなちがいがあります。折口信夫は、鴎外のように、自分の学問と創作とをそれぞれ別の分野のものとして分けようとしませんでした。むしろ逆です。
折口は、自分の学問と創作はおなじもの、いわば一心同体のものとして考えてほしいと訴えています。それは彼の大きな特色です。

折口信夫は日本の古代人に思いを馳せ、私たちの祖先の生活や信仰を考えようとしました。
代表的な著作に、『古代研究』三部作があります。しかし古代を探究するのは至難のわざです。文字記録の証拠が少ししか残っていません。
そこで折口は、日本の長い歴史をつらぬいて生きる千年以上のいのちをもつ和歌を重視しました。歌は文学であるというだけでなく、日本人の暮らしや信仰のおもかげを伝える貴重な歴史記録であると考えました。

ほんの子どもの頃から、折口はお父さんに口うつしで西行の旅の歌や芭蕉の俳句をならいました。日本の古い詩歌を、子守歌のようにゆたかに聞いて成長しました。
また、折口が中学に入ったころは、与謝野鉄幹が「明星」を立ち上げ、和歌を明治の若者のための新しい詩にすると宣言した、華やかで情熱的な浪漫の時代のただなかです。
「われ男の子 意気の子 名の子 剣の子 詩の子 恋の子 ああもだえの子」という鉄幹の燃えるような熱い歌や、晶子の「夜の帳に ささめきつきし星の今を 下界の人の 鬢の ほつれよ」などという美しい妖しい恋の歌に、折口少年はこころを奪われました。
新詩社から出た、自分と一つちがいの石川啄木の歌集『一握の砂』にも感激しました。
自分でも、鉄幹や晶子をお手本にしたような恋や旅の歌をつくるようになりました。歌はとくべつなものでなく、身近にある愛する美しい声や音楽のようなものだったのです。
この歌へのおさない頃からの愛が、折口信夫の創作と学問のたいせつな芯なのです。
とくに折口は小さなころから、『万葉集』を深く愛しました。中学生のときはすべての歌を暗唱していました。
折口のおじいさんは、明日香村の古い神社から、大阪の折口の家に養子婿に入ったひとです。つまり万葉集の舞台の明日香は、折口のふるさとでもあります。
大阪の家からあるいて明日香に通い、万葉集の歌を大きな声で歌いながら、柿本人麻呂や額田王がうたった山や川のありさまをこころに焼き付けました。

たとえば早くに一つ、気づいたことがあります。万葉集には、つらい、淋しい、苦しい旅の歌が多い。命をけずるような心ほそる歌が多い。これこそ、西行や芭蕉に受け継がれてゆく旅の文学の源、すなわち日本が世界に誇る命のはかなさを歌う無常の文学の源なのではないか。そう発見します。
万葉集の旅の歌人、高市黒人の旅の歌を、折口はもっとも深く愛しました。

いづくにか船泊てすらむ。安礼の崎 漕ぎ廻み行きし 棚なし小舟

黒人の海の旅の歌です。今は夜。この深い闇の中で想う。昼間まばゆい太陽の光を浴びて岬をゆっくり回り込んで漕いでいったあの小さな船は、今はどこの島や海辺に泊まっているのだろう。静かな夜に、昼間海の上ですれちがった船のことを思い出しているのです。
自分も、波にゆられて旅をつづける身。あの船の人も旅の身。とても淋しいはかない想いがにじむ歌です。
古代の旅は命がけです。夜は真の闇。旅する人は恐れおののきます。日暮れから夜は不安な思いでいっぱいです。そんなときは、自分のおののく魂をなだめ、静まらせるお守りの歌をつくるのです。黒人のこの歌も、そんな魂のまじない歌なのにちがいないと折口は考えます。
ああ、自分でも旅をしなければ、と折口は決意します。それもなるべく万葉集の人々がしたような、道なき道もあるきとおす、辛い苦しい旅をしよう。本で古代のことを勉強するだけではだめだ。
二十代から折口信夫はさかんに日本を旅しました。できるかぎり歩きました。山中で道を見失い、遭難したこともあります。オオカミに囲まれ、じっと息を殺して一晩草むらに身を隠したこともあります。
みずからも旅の歌人として、旅の絶唱をたくさん詠みました。紀伊半島・熊野の人もかよわぬ山の道で、こんな歌を詠んでいます。

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
人も 馬も 道ゆきつかれ 死ににけり。旅寝かさなるほどの かそけさ
                  第一歌集『海やまのあひだ』より

一日中だれにも会わず、原生林のなかをあるく旅。峠で力つきて死んでいった無数の旅人や馬の魂をなぐさめる石の墓に手を合わせ、さらにあるいてゆく旅。近代の日本列島を旅しながら、折口は死者たちの魂とともに、古代の列島をも旅したのです。
『古代研究』に、有名なうつくしい言葉があります。

十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王が崎の尽端に立った時、
遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかった。

二十代の終わり、折口は紀伊半島を右回りにほぼ一周する旅に出ます。半島は、海と山の二つの自然がせめぎあい、その僅かなはざまで人間が暮らします。まさに<海と山のあいだ>。あ、これは古代日本の風景だな、と折口は実感します。
日本人ははじめからこの国土にいたのではなく、南から船で長い時をかけて移住してきた。そう折口は考えます。
古代日本はまだ山の切りひらかれない島国。移住した我々の祖先は、海と山にはさまれて生きたのだ。
目の前は青い海原。それを見れば、もといた南の母なる国が恋しくてたまらず涙にくれることもあったろう。その遠い祖先のノスタルジーの記憶は、子孫のわれわれの心の深みにも受け継がれている。だからほら、自分は今、志摩半島の大王が崎に立って太平洋を見晴らして、泣きたいほど青い海の水平線の彼方が恋しい。そこから自分の魂は来たのだと思われてしかたない。これは祖先から伝承された心なのだ。

『古代研究』とはいわば、ここから始まっています。この列島に来る以前の古代。船をあやつり、もといた国を恋しがりつつ大海原を渡って来た日本人の長い旅の歴史。なぜ日本人が旅を愛し、旅の文学をつくり、旅の文化を重んずるのか。折口はその謎に迫ります。みずからも旅し、歌を詠み、古代人の経験をたどりつつ日本人のこころの歴史を探ります。
ゆえに自分の学問と創作は一心同体であると宣言するのです。折口信夫の世界は、知性とこころの感激の波うつ、妙なる世界です。
その論文も詩のようです。まずどうぞ、『古代研究』や『死者の書』のページをひらいてみてください。

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