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「最強の城『江戸城』の秘密」(視点・論点)

奈良大学 教授 千田 嘉博

徳川家康が築いた江戸時代初めの江戸城絵図が島根県松江市の松江歴史館から発見され、今年2月に発表されました。本日は発表された絵図から、徳川家康の江戸城の秘密を読み解き、その歴史的な意義を考えたいと思います。

発表された家康の江戸城絵図は、今日の東京に直接つながる、わが国の首都の起源を明らかにするものです。2020年の東京オリンピック・パラリンピックをひかえて、あらためて江戸-東京のはじまりを考える重要な手がかりだと思います。

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さて、徳川家康はもともと岡崎城を拠点に、現在の愛知県の一部でありました三河国を治めた戦国大名でした。幼くして今川義元の人質となりましたが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が亡くなると、織田信長と同盟して今川氏や武田氏などと戦いました。信長の死後、家康は豊臣秀吉の家臣となり、1590年(天正18年)に小田原の北条氏が滅ぶと、関東8か国の領主となって、江戸城を居城にしました。
家康はすぐに江戸城の工事に取りかかりました。そして1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いを経て、1603年に家康は征夷大将軍になって江戸に幕府を開きました。これを契機に各地の大名に江戸城の土木工事を分担させる「天下普請」を大規模に進めました。
1607年(慶長12年)頃には、江戸城の中心部は一旦、完成したと考えられます。こうして徳川家康の慶長期江戸城が姿を現しました。一般に私たちは家康が築いた江戸城が今日まで残っているとイメージします。

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たとえば江戸城を描いた資料として「江戸図屏風」はよく知られていますが、これは3代将軍・徳川家光の時代の江戸城を描いたもので、家康の江戸城とは大きく異なっていました。なぜ、そうなったのでしょうか。
江戸時代に徳川幕府は「武家諸法度」を制定して、大名が新たな城を築くことを禁止し、修理をするときも、元通りにするよう定めました。この結果、江戸時代のはじめに完成した各地の近世城郭は、幕末まで大きく変わることなく、当初のかたちを維持したのです。
ところが「武家諸法度」を制定した幕府の城であった江戸城だけは、法にしばられずに大規模な増改築をくり返し、しだいに宮殿化していきました。そのため家康の慶長期江戸城は、改修によって失われ、ほとんど見ることができなくなったのです。
そうしたなかで今年の2月に、島根県松江市の松江歴史館に慶長期の江戸城を描いた絵図「江戸始図」があることが発表されました。

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私もこの絵図の調査に加わりましたが、書き込まれた武家屋敷の組み合わせから、1607年から1609年の江戸城を詳細に描いた絵図だとわかりました。この「江戸始図」によって、はじめて家康が築かせた慶長期江戸城の具体的な姿を、知ることができるようになったのです。
松江歴史館の「江戸始図」は、松江藩主だった松平家が編さんさせたと思われる、全国の城の絵図を集めた『極秘諸国城図』の1枚です。松江松平家が徳川家康・直系の子孫であったことから、詳細な慶長期江戸城の絵図が伝来したのだと思います。
「江戸始図」を見ると、家康が築かせた江戸城が、現在見られる江戸城とは、まったく異なっていたとわかります。

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現在の江戸城は本丸の中に天守台だけがぽつんとありますが、家康の江戸城は、本丸の中に大天守と小天守を多聞櫓で接続した「天守曲輪」を構成したことが判明したのです。そうした構造は、まるで兵庫県の姫路城のようで、大天守と小天守がひとつの完結した要塞をつくっていました。
「天守曲輪」を設けたことで 江戸城は、たとえ本丸が攻め落とされても、まだ「天守曲輪」で戦うことができた強固な設計になりました。このように「天守曲輪」は江戸城の防御力を飛躍的に高めましたが、本丸の中にもうひとつの城がある設計でしたから、御殿を建てる本丸の面積は狭くなりました。御殿の広さを犠牲にしても、江戸城の守りの力を重視した家康の意志を読み取ることができます。
文字の記録によると、江戸城の中心部は、築城の名人であった藤堂高虎が設計しました。そして1607年に完成した江戸城天守台の石垣は、高さ20メートル程にも達したと伝えられます。現存する姫路城天守の石垣の高さが15メートルですから、家康の江戸城天守台はとても高いものでした。この石垣の上に建った天守は、5重で屋根に鉛瓦を葺(ふ)き、壁はすべて白い漆喰(しっくい)を塗って、その姿は富士山と並んで雪の峰のようにそびえたといいます。

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石垣を含めた天守の高さはおよそ68メートルにも達しました。現存する姫路城大天守は石垣を含めて約47メートル、長野県の松本城天守は石垣を含めて約30メートルです。そして、秀吉が建てた豊臣大坂城の天守は、石垣を含めておよそ高さ40メートルだったと推測されますので、家康の江戸城天守は秀吉の大坂城天守をもしのいだ圧倒的な大きさだったのです。

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また本丸に南から入る、いわゆる大手門は、石垣が外側に鍵の手形に張り出した「外枡形」という出入口を5つ連続させた5重の外枡形になっていました。外枡形は出撃に強い出入口のかたちで、江戸城が防御はもちろん、攻め出す力も強かったと分析できます。

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そうした設計は、たとえば熊本県の熊本城で見られる連続外枡形とよく似ています。

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城の出入口の一種であった外枡形は、織田信長の安土城や、豊臣秀吉の大坂城の大手門にも使われていて、天下人の城の格式と伝統を、江戸城が受け継いだことを示します。

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また本丸北側の出入口には、戦国時代に甲斐国の武田信玄や関東の北条氏が好んで使った出入口「馬出し」を3つ連続させていて、江戸城が東国の城づくりをも受け継いだとわかります。「馬出し」は堀を渡った先に反撃の陣地を設けた出入口で、それを3つも並べた江戸城は、南の大手筋だけでなく、北側に対しても強力な反撃力を備えた城でした。
つまり、家康が築かせた慶長期江戸城は、姫路城のような連立式の天守と、熊本城のような連続外枡形、東国で発達した馬出しという、それぞれの城のよいところを組み合わせてできた、まさに日本の城の集大成といってよい最強の城だったのです。発表された「江戸始図」は、家康の江戸城の謎を解明しただけでなく、日本の城郭の歴史において、家康の慶長期江戸城が、重要な位置を占めたことを明らかにしました。
家康は関ヶ原の戦いに勝利し、その後、征夷大将軍になりました。発見された「江戸始図」から、家康が豊臣家との戦いをまったく楽観しておらず、強力な要塞としての江戸城を築き、万全の体制を整えて大坂の陣に臨んだようすが見えてきました。純白に耀く大小天守がそびえた慶長期江戸城は、豊臣の権威を徳川が圧倒するという家康の強い意志によってできたのです。
江戸城を中心に大きく発展した江戸の町は、近代以降の東京の基礎になりました。本年2017年は、1867年(慶応3年)に徳川幕府が大政を奉還してから150年の節目の年にあたります。新たに発表された家康の江戸城絵図は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックをひかえて、あらためて歴史的な視点から江戸-東京の成り立ちを考える契機になると思います。

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