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「障害者差別解消法を考える」(視点・論点)

国学院大学教授 佐藤彰一

障害者差別解消法が昨年の4月1日に施行されました。その約4か月後の昨年7月26日に津久井やまゆり園の障害者殺傷事件が発生いたしました。犯人の元職員は、鑑定留置の結果、刑事責任能力が認められて2月24日に起訴されています。この事件は特異な事件との見方もされがちですが、障害者差別を考える上で本質的な問題もはらんでいます。いま何を議論すべきなのか、少しお話をしたいと思います。

差別解消法が設置を求めている障害者差別解消支援地域協議会が、まだまだ多くの市町村で設置されていないことが報道で指摘されています。内閣府のデータによれば、設置したところが30.4パーセント、設置予定が27パーセント、未定40.4パーセントとなっています。(平成28年10月1日現在)。私はしかし、これを少ないと評価するのはいささか早計にすぎるように思っています。障害者自立支援法に基づき設置されている各自治体の自立支援協議会は、年に一回か二回程度しか開催されないところが多く、ここでの論議を経ないと差別解消の会議体は設置できないでしょうから、そうそうすぐに設置できたり予定できたりするものではないという制約があるからです。もう少し様子をみることが必要でしょう。
私は、設置の数よりも設置の内容をみるべきだと思います。それは、相談やあっせん機能を持たせているかどうかです。多くの協議会は、障害者の関係者と事業者の関係者が年に数回あつまって差別解消について意見交換をするだけの会議体として設置され、相談や紛争解決機能はないのではないかと推測しています。個別事例への対応となりますと守秘義務の問題や専門的な能力をもった委員の体制整備など問題が多いからです。
また、仮に個別相談や紛争解決機能をもたせても実際に、相談や紛議がこうした機関に寄せられるのかどうか、懸念を持っております。たとえば、千葉県では差別解消法に先行して差別の解消に向けた条例を2006年に制定し、相談や紛争解決機能も持たせているのですが、条例で設置された委員会に寄せられる相談はそれほど多くなく、紛議案件もほとんどありません。
障害関係者の側からは、差別の問題が社会的に多く存在していることが指摘され、実際に紛争も多くあるように思われるのですが、公的な場へ紛議が出ることが、少ないのはなぜでしょうか?
その理由は、今回の差別解消法もそうですが、対話をうたいながら、その場と方法について明確な考え方を提供していないことです。これは、我々日本人の対話下手という文化的な問題にも関係するのかもしれませんが、障害者の問題を、障害者「だけ」の問題であるとして、孤立化させてしまっていることに、より直接的な問題があるように思います。
たとえば、障害者には家族がいます。また、たくさんの支援者がいます。そうした家族や支援者への差別を、解消法では取り扱っていません。そのことに対する認識がなかったわけではないと思いますが、法律の中に組み込むのは難しかったのでしょう。こうして障害者と家族・支援者は切り離されているわけです。
また、障害者と同様の社会的障壁に直面している人たち、例えば妊娠している女性や、高齢者の問題は、障害者の問題とは区別して扱われます。かなりの数の高齢者が認知機能の低下を理由に精神病院に収容されようとしているわが国においては、高齢者の問題は、社会的排除という側面において障害者差別の問題と同じ課題を抱えているように思うのですが、そうした論議はあまりされません。つまり障害者の問題は、国民全体で議論する問題でもあるのですが、そのことが隠されて気づきにくくされてしまっているのです。
津久井やまゆり園の事件は、偏向した思考の持ち主が極端なことをした、そんな位置づけが横行しています。他方で、そこに暮らす利用者、そしてその家族、働く支援者、これらの人々は実相が十分には明らかにされていません。被害者の名前すら公表されない匿名化が行われ、保護者や職員によってどのような生活支援が行われていたかも解明されず、一人の人間の犯罪行為だけが強調されることになっているように思います。公式の調査報告書などでは、この事件の背後には差別と偏見があると記載されています。しかし、それは元職員だけの問題ではないはずです。優生思想と障害者への犯罪行為を直結させるだけの思考では、問題の一面しかみていないように思います。なにが足りないのか、それは障害者の問題が孤立化していることへの認識です。その背後には、障害者以外の方々の障害者に対する理解があります。

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多くの人々は、障害者は、障害ゆえに能力のない人だ、自分でものごとを判断できない人だ、だからとても困っておられる、そう理解しているのではないでしょうか。そう理解した場合、支援の基本は代行決定になります。障害者は「保護の客体」となってしまいます。そうした支援を管理型権利擁護と呼ぶとして、いまの施設は多くがこのタイプの考えのもとに建物も運営方針も設計されているように思います。しかし、やまゆり園の関係者もそうだと思いますが、障害者の方と接する多くの人々は、障害者にもなんらかの能力があり、その人なりの判断があることを実感します。その能力や思いをできるだけ尊重した支援ができないかと考えます。そこでは、障害者は「人生の主体」なのです。そうした支援は自立型権利擁護の支援と言っても良いでしょう。しかし現在の大規模入所施設の集団生活の中で、こうした支援を実現するのは、困難を極めます。現場のスタッフは、やむなく管理型の環境の中で、できる範囲で自立型権利擁護としての生活支援を実現しようと努力しているのではないか、私はそう思っています。
やまゆり園の元職員の行為は、報道によりますと、彼以外の他の人は、彼の独断を実現するための手段としてしか見ない思考にもとづいているようです。しかし、そのような思考の人間が障害者を襲うことになるのは、彼が、やまゆり園で働いていたことが大きく影響しているのではないか。つまり、管理型で運営されている入所施設の欠陥があるのではないでしょうか。もしそうだとすれば、管理を強化することは再発防止にはまったくならず、逆効果であるとすらいえましょう。誤解を恐れずに図式化すると、以上のような整理ができるでしょう。 
元職員の独断的偏見は、管理型権利擁護の支援が行われている環境の中で育まれた可能性があり、これを自立型権利擁護の支援へ転換していくことが重要だと思うのです。そうすれば、たとえ今回の元職員のような特異な傾向をもった人物が、そこで働いたとしても「障害者は生きる価値がない」などという極端な独断を持つには至らないのではないかと思うのです。つまり、我々国民全体が障害者の問題を孤立化させ、社会から隔離された管理型施設を生み出しているところに、やまゆりの事件が突きつける根本的な差別が存在しているように思うのです。差別をしているのは元職員だけではないのです。われわれ全員がその差別に加担しているとも言えるのではないか。そう認識したからこそ、神奈川では建物の建て直しへの反対運動が起きているのです。障害者差別の解消といっても、この根本的な差別に向き合わないと、議論が国民的な議論になることはないように思っています。

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