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「枕草子 清少納言が込めた想い」(視点・論点)

京都学園大学 教授 山本 淳子

「春は、あけぼの。」
この冒頭の一節で知られる、古典文学の名作『枕草子』。今から千年前の平安時代中期、天皇の后に仕えた侍女・清少納言によって記され、日本最古の随筆作品として、現在も多くの人に愛されています。この冒頭部分を、学校の授業で暗唱したという方もいることでしょう。その際、『枕草子』は作者・清少納言の個性的な美意識を特徴とすると、聞かれた方も多いのではないでしょうか。
しかし、枕草子を貫く個性は、実は清少納言一人のものではありませんでした。

枕草子の中にあふれる、例えば春夏秋冬の季節を愛する心、和歌など日本文化とともに漢詩・漢文にも通じる博学ぶり、すばやくその場に適応し、自由自在に機転を利かす当意即妙の才気、そしておおらかな自己主張などは、すべて清少納言が仕えた后・定子の個性そのものだったのです。

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一条天皇の后・定子は、摂関家の長男を父に持つ一方、母は宮廷の女官出身の女性、つまり平安のキャリアウーマンでした。天皇の女性秘書官を務め、漢文にも明るい知性によって摂関家の妻、それも正妻の座を獲得した母は、その成功体験を子育てに生かしました。息子にも娘にも、教養と、臆せず前に出る積極性、そして親しみやすさを教え込んだのです。それはまた、彼女の夫の望むところでもありました。こうして、おそらく平安の皇室史上初めて、キャリアウーマンの感覚を生活信条とする、きさき中最高位の「中宮」、定子が誕生したのです。
ただ、最高位と言っても、そこには第二位も第三位もいませんでした。定子の夫である一条天皇は、明朗快活で知的な定子をこよなく愛し、ほかに誰もきさきのいない中で、定子を第一位の「中宮」の座に付けたのです。
『枕草子』といえば、よく知られているのが「香炉峰の雪」のエピソードでしょう。

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雪の高く積もった日、定子が清少納言に声をかけます。
「少納言よ、香炉峰の雪、いかならむ」。香炉峰は中国にある廬山という山の峰の一つです。その雪景色は、詩人白居易の詩の一節に「香炉峰の雪は、簾を撥げて看る」と詠まれています。定子はその一節を使って、「自分もあの詩人のように外の雪景色が見たい」という意志を、清少納言に伝えたのです。
清少納言は即座にその意を理解し、定子に雪が見えるようにと、御簾を高く上げました。定子はにっこり笑ったと、清少納言は記しています。
これは清少納言が自分の博識を自慢したエピソードのようですが、そうではありません。その場にいた同僚たちは皆、この詩を知っていたのです。しかし唐突に定子から詩の一節を示されて、それが「雪が見たい」という意味であると気づいたのは、一人清少納言だけでした。つまり、知識に加えて、常に相手の心を推し量り対応する機転こそが高い評価を得たということなのです。定子は率先して侍女たちを薫陶し、才気渙発、当意即妙という新しい文化の潮流を作っていきました。清少納言はそのなかで鍛えられた一人だったのです。
枕草子は、作品の誕生の経緯を自ら記しています。或る時、定子は兄から、当時貴重品だった冊子、ノートを贈られました。これに何を書こうか、と清少納言に相談すると、清少納言がとっさに応えたのが「枕にしたいものです」。冊子はきっと枕のように分厚かったのでしょう。ところがこの一言によって、定子は「ならば、受け取りなさい」と、冊子を清少納言に与えたのです。

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当初、定子は、冊子を古今和歌集の写本にするつもりでした。
その約百年前に作られた最初の勅撰和歌集で、いわゆる国風文化の先駆けであり、貴族たちの文化の手本であった和歌集です。
しかし計画を翻して、定子は清少納言に新作を書くように命じたのです。自分が薫陶した清少納言こそが、定子の文化の結晶といえる、全く新しい作品を生み出してくれる。定子はそう信じたのだと、考えられています。

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こうして、型破りな中宮・定子の最先端の文化を満載した作品・枕草子は誕生しました。花鳥風月、宮廷の生活、人間の機微を記す、才知溢れるエッセイ集は、定子の個性に清少納言の個性を重ねたものだったのです。
ただ、『枕草子』の明るさは、二人の個性だけが理由ではありません。実は定子の絶頂期は、長くは続きませんでした。父が亡くなり、家が没落し、定子は一時、出家するほどの絶望的状況に立たされるのです。そうした定子の前に清少納言が差し出したのが、『枕草子』でした。明るさや笑いは、苦境にある定子の心を和ませるためでもあったのです。

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定子の父の後、権力を握ったのが、弟の藤原道長です。出家した定子は、天皇の愛情によって呼び戻され、再び后として政治の世界にさらされることになりました。道長は自分の娘・彰子を天皇の后とし、天皇の寵愛を独占している定子を迫害しました。貴族社会は権力者道長に同調し、定子はやがて、后第一位の称号すら、彰子と分け合う形にされてしまいます。そして僅か24歳で、天皇との第三子を出産し、亡くなってしまうのです。
清少納言は、定子の死後も枕草子を書き続けました。現在のブログのような形で、書いては公表したものと思われ、定子の死後10年近くを経ても執筆していたことが確認できます。しかし『枕草子』には、定子の亡くなったことは記されていません。定子は最後まで明るく笑い、颯爽と文化の創造を続けていたように記されています。定子の生前は定子を慰め、定子の死後はその魂を慰める作品。そして理想的だった定子の姿を永久保存する作品。それが『枕草子』でした。
ところで、定子の死後、清少納言が後ろ盾を失っても枕草子の執筆を続けられたのはなぜでしょう。定子の記憶を呼び覚ます枕草子を、藤原道長は妨害しなかったのでしょうか。
実は、定子の死後まもなく、貴族社会は定子を再び尊重するようになりました。定子を迫害した藤原道長は、定子の崩御した当日、定子の父親の怨霊に襲われました。罪悪感が心に幻を抱かせたのでしょう。道長に与していた貴族たちは、一転して定子への同情を唱え始めます。やはり罪悪感の裏返しでしょう。一方定子や一条天皇と同年齢の若者たちは、手に手を取って出家する騒動を起こしました。激しい無常感と無力感に駆られてのことです。定子の崩御は、社会全体に衝撃を与えました。その中で、美しい定子の記憶だけをとどめる枕草子は、むしろ社会を癒す作品として受け入れられたのだと考えます。
清少納言といえば、紫式部から舌鋒鋭く批判されたことも知られていますが、紫式部がそれを書いたのは、定子の死の10年後です。その頃には、彰子に仕えていた紫式部が批判せずにはいられなかったほど、枕草子の影響力は大きく、貴族たちに定子の時代を懐かしく思い出させていたのです。
「春は、あけぼの」。誰もが思いつく「春は、桜」ではないとは、千年後の現代においてすら斬新な発想ではありませんか。
この一言にも、定子の個性、清少納言の定子への思いが込められているのです。どうぞ、作品の背景を心に置きつつ、『枕草子』を味わってみてください。

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