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「歌合 勝負を競う和歌」(視点・論点)

東京大学教授 渡部泰明

 歌合という行事をご存じでしょうか。和歌一首と和歌一首の出来映えを競わせる遊戯です。集団を左方と右方という二つのグループに分け、それぞれから一首ずつ代表を出して、一対一で勝負をつけさせるわけです。なんだか相撲に似ています。そう、相撲は昔すまいといいましたが、そのすまいの形式を真似て生まれたのが、歌合だと言われています。ほかに、紅白歌合戦などがこの形式に似ていますね。日本人に愛されてきた遊びの形といえるでしょう。それにしても、和歌という文芸で、どうして勝ち負けが決まるのでしょう。

歌合は平安時代に始まり、その後も長く行われましたが、とくに平安時代半ばから鎌倉時代の初め頃までが、熱心に催された時期です。今日は、そんな数多い歌合の中から、長元八年、1035年の五月十六日に行われた、『賀陽院水閣歌合』を取りあげます。「賀陽院」とは、このとき関白左大臣で権力の絶頂にあった、藤原頼通の邸宅です。頼通は道長の子です。水閣というのは水辺の立派な建物ということで、この賀陽院に大きな池がいくつも造られていたことに由来します。この賀陽院で『法華経』を連日講じる法華三十講という法会があり、その完了を祝って行われた、贅を尽くした盛大な歌合でした。ですからこの歌合には、「三十講歌合」という別名もあります。
 賀陽院水閣歌合では、十の題が出され、十番の戦いがありました。計二十首ですね。歌人は、一人で何首も詠んだ人がいるので、全部で九人ほどです。赤染衛門・相模・藤原定頼・能因法師といった、『百人一首』にも入っている有名歌人もいました。今日取り上げるのは、最後の十番の歌です。「恋」の題で詠まれました。まずその和歌を見てみましょう。
 左方は能因法師の歌です。能因法師は、十一世紀前半の時代を代表する歌人といってよいでしょう。

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黒髪の色も変はりぬ恋すとてつれなき人にわれぞ老いぬる

 「黒髪が白髪に色変わりしてしまった。冷淡な人に恋をして私は年老いてしまったのだ」という意味です。受け入れてくれない女性にプロポーズし続けて、とうとう白髪頭のお爺さんになってしまった、というのです。古語の「つれなし」には、変化しないという意味があります。相手の心は変化しないのに、私の髪の毛の色だけは変化してしまった、という対照の妙を狙った歌でもあります。言葉遊びのようで、真実味が足りない、とお感じでしょうか。いえいえ、言葉遊びも大切なのです。黒髪はもちろん、何もかもが変わっていくのに、あなたの気持ちだけは冷たいまま変わらないのだね、という自嘲めいた嘆きが伝わります。そしてその自嘲とともに、報われないのに長い間恋をし続けてきた、という自分の愛情の深さを訴えたいのです。
 さて、相対する右方は、藤原頼宗の歌です。頼宗は道長の次男で、この歌合の主催者頼通の異母弟です。つまり大変高貴な人物ですが、歌人としても非常に優れていました。能因法師の相手として遜色ありません。彼が詠んだのは、次の歌です。

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逢ふまではせめて命の惜しければ恋こそ人の祈りなりけれ

 「あなたに逢うまでは何としても生きていたいと命が惜しく思われる。ということは恋は人にとって祈りのようなものなのだなあ」という意味です。「逢ふ」は逢って契りを結ぶこと。普通なら、あなたに逢えれば命はいらない、死んでも逢いたい、と歌うのが恋の歌の常道でした。それをひとひねりして、逢いたいから生きていたい、と歌ったところに独自性があります。そして、その願いを、「祈り」という言葉で表現した点が面白い。この場合の祈りは、恋人に逢うまで生かしてほしいという祈りと、恋が成就してほしいという祈りと、二つを含んでいると思います。逆に言えば、そう祈らなければならないほど、生きていられそうもないし、叶えられそうもない恋だということなのでしょう。切実な思いを「祈り」の語がうまく表しています。
 さて、能因の歌と頼宗の歌と、どちらが勝ったでしょう。皆さんならどちらに軍配を上げますか。どちらもなかなか深い恋心を歌っていますから、アンケートを採れば結果も分かれることでしょう。そもそも詩歌に勝ち負けをつけるなんて無理だ、好き嫌いの話になってしまう、と選ぶのを遠慮される方もあるかもしれません。
ついでにいうなら、歌合の判定には、「持」という引き分けもあります。
 結果を述べれば、勝ちを与えられたのは、右方の頼宗の歌の方でした。なぜそう判断されたのか、理由が書かれていないので、よくわかりません。それでは負けた能因法師も納得しないだろう、という気さえします。ところが、この勝負に関して、『袋草紙』という書物の中に、こんな逸話が紹介されています。この歌合のとき、能因法師が、衣を頭からかぶり身を隠して密かに判定を聞いていた。というのも、自分が詠んだ「黒髪の色も変はりぬ」という歌を、うまく詠めたと自信をもっていたので、勝敗が気になったからでした。けれども、相手方の「逢ふまでは」の歌が発表されると、そっと退出した。とても太刀打ちできない、と感じたからだ、というのです。能因は、完敗を認めたわけです。
 もちろん、これは後世の逸話ですから、事実だと信じ込むわけにもいきません。ただ虚構なら虚構で、この逸話には、能因と頼宗の歌の表現の違いを象徴的に示しているところがあるような気がしてなりません。能因という人は実際にとても和歌にこだわりを持っていた歌人です。
歌に過剰なまでに執着する人を当時の言葉で数寄者と言いますが、能因は数寄者を自認していました。年老いるまで恋し続ける「黒髪の」の歌に表された人物は、そんな数寄者の彼にふさわしい。あくの強さがある、といえばよいでしょうか。一方、「祈り」という言葉で自分の恋心を表現する頼宗の歌の方は、もっと純粋な真情にあふれている感じがします。しかし、たんに純粋なだけではありません。この賀陽院水閣歌合が、別名三十講歌合と呼ばれる、法華経を講じる法会の後で行われたことを思い出してください。「祈り」を歌う頼宗の歌が、いかにもこの場にぴったり適合していることがわかるでしょう。身を隠したまますごすごと退散する能因の姿は、「逢ふまでは」の歌と、歌合の開催された場へのふさわしさという点で、格段の差があったことに由来しているのではないでしょうか。
 もちろん、「祈り」の語のよさは、場に適合しているだけにあるのではありません。今言ったような純粋な心の表現としても抜群です。何より和歌らしさを感じさせる。なぜでしょう。和歌はただ思っていることを表現するものではありません。こうあってほしいという願いや、理想を表現するものです。願いや理想は、突き詰めれば祈りに似てきます。そういう意味で、和歌は祈りの文学という面があります。頼宗の歌は、和歌の特色を端的に表しているといえるかもしれません。「逢ふまでは」の歌は、秀歌として著名となり、勅撰集である『後拾遺和歌集』にも選ばれました。

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