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「幸田家のことば」(視点・論点)

作家 青木 奈緖

 二○一七年が始まりました。今年の干支は丁酉(ひのととり)、酉年です。ここで言う酉は鶏のことで、一番鶏は夜明けを告げることから、あるいはまた「とりこむ」ということばにかけて、縁起がいいと言われます。もっとも酉年に限らず、十二支の動物すべてに、その性質や姿かたちからイメージされる何かが考えられ、言い伝えられています。いいことばかりではなくて、鶏については「三歩歩けば忘れる」「忘れっぽい」などとも申します。
 こうした表現はいったい何を根拠に、いつ誰が言い始めたのでしょう。調べてみると、中国の故事が由来となっていたり、古事記がもとになっていたりといろいろですが、ことわざや言習わしの類は意味はわかっても、出典はなかなか調べがつきません。江戸時代に活気ある庶民が言い出したことなのか、あるいはもっと前のことか、いずれにしても多くの情報が行き交う今の時代とは違います。

 こうしたことを考えるようになったのには、きっかけがありました。昨年は申年でしたが、猿を使った表現に「猿守り」ということばがあります。およその意味を申し上げれば、子育ての神様が干支の動物に順番に子守を命じて、それぞれの動物が特徴をいかして上手に子守を務めるのですが、猿だけは赤ん坊にいたずらしたり、せっかく寝ついたところに余計なちょっかいを出して起こしたりして、むずからせます。とりたてた理由もないのに赤ちゃんのご機嫌の悪い日というのはあるもので、そんなときのことを「猿守り」と言います。
 このことばは私の母方の家で使っているもので、祖母の幸田文が話していた口調も記憶に残っています。うちではほとんどの場合、ことばの意味を拡大解釈していて、赤ちゃんのご機嫌だけでなく、なぜか間が悪くて物事がうまく運ばない日のことを「今日は本当に猿守りでね」というように使っています。
 ところが、この「猿守り」は、今では使う人がないばかりか、一般にはほとんど通じないようなのです。日ごろ話をしていると、その内容を相手に伝えようと努めることはありますが、ことばそのものへの意識はおろそかになりがちで、正直、私はこのことばが通じないとは思っていませんでした。もとはどこかの方言なのか、あるいは時代にとり残された「時代の方言」のようなものかもしれません。
 そして、どうやらその種の、今は使われなくなったことばが母方の家にはいくつかあるようなのです。例えば、「心ゆかせ」は、自分の心をなぐさめ、納得するための小さな行為のことを言います。「けすい」はものの量が少ないことで、お茶を注ぎ分けているときに「これ、ちょっとけすいから、もう少し足してよ」という感じで使います。あるいはまた、切羽詰まったがんばりどきに「一寸延びれば尋延びる」と言って励ましにします。気がつけば、今はどれもあまり耳にしなくなった表現かもしれません。
 母方の幸田の家に古いことばが残っているのは、代々東京に住んでいたということ以外に、家族が少なかったことも理由のひとつと思われます。曾祖父の幸田露伴には(成人するまで生きた)兄弟姉妹が六人いるのですが、露伴の子は病で亡くなったために私の祖母ひとりとなり、祖母の子は私の母のみ。もっと家族が多いければ、自然と語彙も広がったでしょうに、小人数だったから曾祖父がどんな話し方をしていたかなどということが、私の代にまでうっすらとではありますが、伝わっているのでしょう。
 ことばは日々の生活に直結し、考え方にも反映されます。ここ二年ほど、私は母方の家に伝わる今はあまり使われなくなったことばや、日々の生活の指針となってきた表現を見つめ直す仕事をしていました。その際に改めて感じたのは、ことばの変化の速さです。
 いわゆる流行語はことさら入れ替わりが激しく、新しさを求めると同時にどんどん使い古されていきます。めまぐるしくはありますが、仕方ないことでしょう。それに比べれば普段使っていることばの変化ははるかにゆるやかなはずですが、それでも、自分が現在持っている語彙はどこからどうして身についたものなのか、いざ調べてみるようするとわからないことだらけです。大人になってから意識してとりいれたことばは比較的記憶に残りますが、子どものころに無意識に受け入れたものは糸口さえ容易には見つかりません。少しずつでもひもとくことができれば、そんなところに意外なおもしろさも隠れています。
 ことばは常に変化するもので、生まれることばがあれば、消えるものがあるのはあたりまえのことです。古いことばなら何でも良いというわけでは決してありません。ただ、消えるときはごくひっそり、そのことばを話していた当人さえ意識しないうちに見失ってしまうことが多いような気がします。
 先ほど挙げた「一寸延びれば尋延びる」は、辞書にも載っていることわざで、一寸は約三センチ、ひと尋は両手をひろげた長さで、およそのところで一・八メートルです。今、苦しいときに三センチ分がんばれば、それが先へ行って六十倍の一・八メートルのゆとりにつながるというのです。六十倍とはずいぶん大きく出たものだという気がしますが、やや現実離れした飛躍を信じたくなるほど、今が苦しいのです。ここを乗り越えさえすれば、先行きなんとかなる。そんな気概が感じられて、私の好きなことばのひとつです。けれど、尺貫法が日常から遠くなって、もはや絶滅危惧種のことばに数えられるのでしょう。
 ことばは人が使うことによってのみ、永らえることのできる生きものです。そして思っている以上に許容範囲の広いものです。大概の表現は言い換えが可能ですし、必ずしも良い悪い、正しいか誤っているかで判断できるとも限りません。一方で、遠い日の記憶は手置きよく、時々は掘り起こさなければそのままでは消えて行くものです。無意識にひとつのことばを発していても、ことばの運命として見ればその瞬間に取捨選択が行われたことになり、使われなかったことばは一歩、忘れ去られる運命に近づいたことになります。記憶の畑はなるべく手入れをよくして多くの語彙を育てて行けるように、今日の一寸の努力が先へ行ってひと尋の余裕と、喜びとなるように努めてゆきたいと思っています。

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