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「シリーズ・次世代への遺産 田部井淳子」(視点・論点)

エベレスト日本女子登山隊 隊員 北村節子

登山家の田部井淳子さんは、今年10月、がんのために亡くなりました。77歳でした。
私は1975年のエベレスト日本女子登山隊の遠征以来、ずっと山の弟子であり、日常の友人でありましたので、お別れは大変つらいものがあります。ですが、去る18日に仲間の手で挙行した「お別れ会」には、直接の知り合い以外の方も含め、1400人以上の方が参加してくださいました。あらためて、ああ、彼女を慕う人はこんなにいたんだな、と、その魅力と影響力の大きさを実感しました。

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私が田部井さんに出会ったのは、1973年、ネパール政府が75年の春の入山許可を日本の女子隊に出した、という外電ニュースを見たのがきっかけでした。当時、わたしは駆け出しの新聞記者で、登山は冬山入門を果たした程度。準備中のメンバーの取材に行き、そこで出会ったのが、小柄ながら、明瞭な声で、語尾まではっきりと意見を述べる田部井さんでした。
このチームの、「女性だけで登る」という方針ははっきりしていました。当時の先鋭的な山岳会は、たいてい「女性お断り」で、もし女性がチームに加わったとしても「女性はテント番」などと役割を決めつけられ、頂上攻撃からは排除されたり、または、過剰にかばわれたり、ということも多かった。それに対し、「裏方もいや、お姫様扱いもいや」という女性たちが「瞬発力では男性に負ける」ことを認めたうえで、それなら女性なりの登り方をしよう、と集まっていたのです。

私はその取材の直後、自分も参加させて、と申し出ました。われながら蛮勇であった、と思いますが、当時のエベレストは入山できるのは春と秋、それぞれ一隊だけ。もちろん、女性はだれも登っていません。成功すれば世界史に残るだろう、それを見たい、という思いと、この人についていってみたい、という思いからでした。田部井さんもいきなりの志願をよくぞ認めてくれた、と今にして思います。
しかし、この隊は出発前から大きな壁に突き当たりました。世間から「世界の最高峰に女が登れるわけがない」とか、当時すでに長女がいた田部井さんについては「幼子を置いて山に行くなんて、非常識きわまる」など、さんざんにたたかれたのです。スポンサーにも苦労し、最終的には新聞社と系列テレビの協力を得たものの、隊員の個人負担がありながら、エベレスト登山史上、最も貧乏な隊となりました。「女は非力だ」と考えられ、「女性は家庭に」と役割を振られていた時代だったんですね。
そんな経緯を経て、男性とは異なる「ゆっくり、確実」を旨とする登り方で、エベレスト隊は成功します。世界初の最高峰登頂女性となった田部井さんですが、実はその後も、「ただの主婦です」と謙遜する場面が少なくありませんでした。講演もこなすようになっていましたが、ホテルの宿帳の職業欄などに、「なし」とか「主婦」と書いていて、年下の私がおせっかいにも「収入があるなら、登山家と書かなくちゃ」と勧めたこともあります。

79年に、フランスの登山家の招きで、一緒に山岳都市シャモニに行ったことがあります。この時点までに、エベレストに登頂した女性は世界で3人でしたが、フランスの登山家が、彼女たちを集めて催したイベントのためでした。そこで、「なぜエベレストに?」という主催者の問いに、田部井さんは「自分たちの満足のために」と答えたのですが、第二登頂者の中国女性は「国家のために」、第三登頂者のポーランドの女性は「女性の名誉のために」と答えていました。このあたりから、田部井さんの「初登頂者としての社会的立場の認識」は大きく変わってきたように思います。
積極的にメディアに登場して、山登りの楽しさ、野に出る素晴らしさを語るようになりました。柔らかな笑顔に、女性を中心にファン層は広がり、二人の子持ちとなっていた田部井さんは、子育ての苦労や心得、楽しさなどまで語るようになります。人々は、「やさしいおかあさん」として、親しんでいったのではないでしょうか。
ですが、山の世界では、彼女はやはり「挑戦し続ける人」でした。チベット自治区の8000m峰、シシャパンマ(8012)に登頂、また、1980年代には、中国と当時のソ連国境にそびえる7000m三つに、若い女子クラブ員二人と、また南米の5~6000m級4つに、これも若い女子クラブ員と二人でいずれも短期集中連続登攀しています。これらは一面ではエベレストよりも難しい登攀ですが、「最高峰登頂女性」というタイトルを得た後でも、さらに女性と一緒に挑んでいく、というところが、この人の真骨頂でした。「山は勲章のためではない。男性に頼らず女性同士で登ることで満足も大きい」という、信念がありました。
かと思えば、ヒマラヤで、ごみや排せつ物による汚染がひどいと聞けば、エベレストベースキャンプに赴いて現地調査し、論文を書きましたし、90年代以後は、世界の一流登山家たちと組んでヒマラヤの自然保護に取り組む国際団体を組織。日本で大掛かりなシンポジウムを開催したこともあります。日本が成長し、円の価値が上がって女性も海外に出やすくなる中、田部井さんはいわばその波がしらに立つようになったのです。

私もいくつかを共にした「世界七大陸最高峰」でも、田部井さんは女性で世界初の全山登頂を果たしますが、このあたりから、高く険しい山、より、知らない世界を見て歩く、ことに興味は移ってきたようです。そして2011年、東北大震災が起きると、今度は東北や、放射能に汚染された故郷、福島県への支援に軸足を移しました。東北の高校生を富士山に招いて登らせたり、他の土地に避難している大熊町町民をハイキングに誘ったり、と、その行動は「より社会的に」なってきたように見えました。
それでも、山の仲間にとっては、いつまでも愉快な仲間であり続けました。結構お茶目で、バンカラな十八番の「ダンチョネ節前説」はテントを沸かせましたし、途上国に行けば現地の人々に、日本語で「元気ぃ?お父ちゃんとなかよくしてるか~い?」と大きな声で語り掛け、いつの間にか仲良くなっていたりするのです。
また、周囲にものを食べさせるのが好きでした。真夏の稜線では、汗だくだくの仲間にザックから重いくだものをとり出して歓声をあびましたし、遠征先まで手作りのシソ味のお味噌を持参してくれたものです。
発病してからの4年半、弱音を聞きませんでした。慌てず騒がず、冷静に打てる手を打つ、というのは、山でピンチに陥った時と同じ対応でした。その上で、限られた時間なら、嘆いてすごすよりやりたいことをやり遂げていく、と、東北支援や、仲間との夏の合宿など、それを貫いたように思えます。

いま、日本の山には、軽やかな登山ウェアの老若男女の姿があふれています。エベレスト以前には考えられなかった光景です。私には、この様子が、「女性だって登っていいんだよ、中高年になってもの山は楽しいよ」と発信し続けた田部井さんが作った、新しい日本の山岳光景だ、と思えてなりません。
もうひとつ、最後のメッセージもありました。闘病中も明るく前向きであり続けた姿です。高齢社会で多くの人がさしかかる人生の最終ステージ。その一つの過ごし方を見せてくれたのではないでしょうか。
遠征中の苦しい登りで、「肉体の苦しさは、忘れることができる。やり遂げたという精神の満足は、一生、持っていられるんだ」と語っていた田部井さん。
ただただ、ありがとうね、と伝えて、冥福を祈りたいと思います。

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