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「シリーズ・次世代への遺産 永 六輔」(視点・論点)

写真家 大石 芳野

永六輔さんのご家族から7月7日に亡くなられたという知らせをいただいた時、「え? そんなに早くに」と思わず叫んでしまいました。83歳という年齢からは早いとは言えませんが、お見舞いに伺った時、ロレツはおぼつかなくても頭脳明晰な感じはありました。それだけにベッドから再び起き上がって、また世間に向けて発言されていくのではないかと期待しながらご自宅を後にしたのでした。

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亡くなられてお悔やみに伺った時、娘さんの千絵さん、麻理さんたちはこう話しておられました。「父は先に行っているよと言うように、眠るように旅立ちました」と。著作の『大往生』では、「死んだっていうからおかしいんだよ。先に行っただけなんだから」と綴っています。

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そして永さんは自分の父親の死に立ち会ったことを通して「家族のために死んでみせることが最後にできるんだ」とも語っておられます。
ご本人はまさにそのように最期を迎えた大往生だったのかもしれません。
永六輔さんと初めてお会いしたのは1960年代末の頃ですから、かれこれ半世紀ほどにもなります。当時の永さんはラジオで若者に向けて、気骨のある彼なりの真っすぐな考えを率直に力強い声で語りかけていました。

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テレビにも少しは出演されていましたが、ラジオのマイクから流れる早口で舌足らずの少し甘いような話し方は圧倒的に存在感がありました。それを聞きながら、この人はどんな顔をして話しているのだろうか、どんな表情で笑ったり怒ったり、悲しんだりしているのだろうか、一度、会って、許されればレンズを向けたいと思ったのでした。

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永さんは、放送の電波が送られる先で聴いている人たちのことを知らなければならないという民俗学者の宮本常一さんのアドバイスを受けて以来、日本中を旅していました。時には海外にも。
そうした折、週刊誌で「僕のいる絵はがき」という企画が始まり、永さんが文章を書き私が写真を撮ることになりました。永さんはどこへ行っても土地勘があり、大勢の知り合いがいて、例えば職人さんたちとも専門的で深い会話を弾ませていました。社会人になりたての私にとって、その行動力も知識力も話しぶりも、何もかも新鮮で驚きでした。
永さんと私は10歳の年の差しかないのに、まるで20歳以上も差があるような感じを受けました。それは交友関係の幅広さに加えて、何を尋ねても知識ばかりか独自の解釈も加わった魅力あふれた答えが返ってきたからです。永さんの経験や体験の豊かさは高校生のころから放送関係の仕事をしていたことにもあるでしょうが、何倍も何十倍もスケールが大きい人だという思いは最後まで変わりませんでした。

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しかも、多くの人たちとの丁寧な付き合い、友人を大切にする生真面目さは終始一貫していました。「生きることは借りを返すこと」と著作で述べている通りだったと思います。

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そして永さんは、恥ずかしがり屋でした。単に恥ずかしいのではなく、たいして知らないのに知っているように話すなんて、とんでもない、恥ずかしいことだ、という姿勢です。時には私が向けるカメラのレンズにも恥ずかしがりました。

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「僕は写真嫌い。それなのに、大石さんの写真にはよく入っている」と言われていましたが、有名人ですからむろん大勢の写真家がレンズを向けました。なぜか私にはご家族や個人的な場面もスムーズでした。

やがて、私の仕事は戦禍に苦しむ国々へ向かうことが多くなりました。例えばカンボジアの大虐殺、ベトナム戦争の傷、アフガニスタンやコソボ、南スーダン・・・と、戦火は世界を震撼させていました。日本には憲法9条で守られた平和がありますが、同じ地球上でこんなに苦しむ人たちがいることに、矢も楯もたまらず飛び出しました。
バタバタ、右往左往しているうちに、永六輔さんと実際に会う機会は遠くなっていきましたが、私の写真展の会場へはマメに訪れてくれました。
そうした中で、とりわけ印象に残ったのは、原発事故で苦しむ人びとを撮影した「福島 土と生きる」の写真展会場に、2日間にもわたって足を運ばれたことです。杖をつきながらも病気にくじけまいとするように背筋を伸ばした姿には、近寄りがたい張りつめた空気が漂っていました。一人で、じーっと1枚1枚の写真に写っているフクシマの人たちと向き合う永さんの表情は真剣そのもので、今でも私の脳裏には鮮明に残っています。
永さんは不自由になった体を車いすに乗せて、3・11以降の東北をよく訪れ、東北の人たちとさらにもっと繋がっていこうとしていました。頑健な若いころからずっと同じ姿勢で、人を大切にしながら行動してきた証が被災地東北にもありました。

永さんはマイク、私はレンズの道を歩んできましたが、ラジオはテレビやネットに、フィルムはデジタル・カメラになって、一時代は終焉に向かっています。新しい時代を迎えながらも、多方面で永さんは一本道を貫き通しました。
その根源にあるものは、自分の学童疎開という戦争体験のように思います。空襲を避けるために都会の子どもは田舎に疎開しました。けれど食糧難でもあり、疎開した子どもにとって、さまざまな辛さが付きまといました。
いま、フクシマの避難者がいじめられています。むろん大切にされている人たちもいますが、横浜や新潟の例のように子どもが間違った情報によって差別の対象となり、苦しめられています。子ども同士だけではなく、大人が深くかかわっている社会の歪みを、弱い立場に置かれた子どもが直撃されているのです。永さんがこれを知ったら、戦争になったのかと思われるかもしれません。
フクシマの避難者に対して投げられる「お金をもらっているんだろう」に対して「だったら元の生活や暮らし、環境を返してくれ」となれば、非難の応酬になり、まさに戦争です。永さんが疎開先で受けたみじめで辛い体験を彷彿とさせかねない事態です。

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永さんは視点論点に70回ほど出演されていますがその中の一回にこうあります。「この国には戦争をしてもいいというような雰囲気が流れ始めている。それがとても怖いと思います」と語気を強めています。要約しますと「僕たちのような子どもなりの戦争体験を、戦争体験のない人たちに伝えなければならない。ごまかさないで、小さな戦争体験でも語っていこう」と。これは17年も前の発言です。
戦禍に苦しむ子どもたちの写真を撮りながら、私はいつも日本の戦争を重ねてきました。日本の子どもたちが戦争の苦しみや辛さを知らないことは幸せです。けれど、その子たちがこの世に生まれたのは戦争で生き残れたおじいさん、おばあさんがいたから。だからお父さん、お母さんが生まれ、自分が生まれた。その子どもが成人してまた子どもや孫を育てるためには平和が一番です。永さんは「どこのどんな戦争にもかかわるのはよそう」とはっきりと主張しています。
いま激論があるなかで、南スーダンに自衛隊は出動しました。
学童疎開の体験を持つ永六輔さんの遺志を私たちはどう受け継いでいけばよいのでしょうか。
ご冥福をお祈りします。

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