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「シリーズ・次世代への遺産 吉田 文雀」(視点・論点)

人形浄瑠璃 文楽 人形遣い 吉田 和生

文楽の人形遣いの吉田和生です。私は今年8月20日に亡くなった吉田文雀に昭和42年に入門し、以来49年間、師匠の文雀の教えを受けて参りました。これから、師匠についてお話させていただきます。
文楽は、物語を語る太夫、その太夫とともに演奏をする三味線、人形の三業から成り立っています。能、歌舞伎と同じく、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。

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吉田文雀は文楽の人形遣いとして重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝として認定されていました。
師匠は昭和3年に生まれ、昭和20年に文楽座に入座、平成28年の引退まで71年間、文楽の人形遣いとして生きてまいりました。師匠は子供の時から芸事が大好きだったようで、父親の東京出張のおりには、同行して歌舞伎座の芝居を観て、旅館に帰ると女中さんの羽織を借りて、昼間観てきた芝居の真似事をして皆に見せるような子どもだったそうです。中学へ入学してからも、芝居の方へ目が行き勉強が留守になり、落第も経験したようです。
中学生の頃は戦争が始まっていて学校も休みが多くなり、勤労奉仕で工場で働く日々だったのですが、工場でケガをしてなにもすることがなくなり、毎日のように文楽座で芝居を観ていると、知り合いの人形遣いの方から「遊んでいるんやったら手伝うてんか」と誘われ、根が好きだった芝居ですから、喜んで舞台に立ったようです。文楽は当時、松竹さんの経営だったので会社から「契約を」と言われましたが、「9月に入隊する事になっているから」と断ると「こんなご時勢やから先の事はわからへん。契約だけでもしとき。契約をしとくと交通費や日当が出せるから」といわれ判を押したのが、文楽の世界に入ったきっかけだと言っていました。すぐに8月15日で終戦になり学校も再開しましたが、戻る気もなく、そのまま入座しました。最初は師匠はなく、吉田玉市師匠の預かり弟子で人形遣いとしての人生をスタートしました。

昭和25年、女方の名人と言われた吉田文五郎の弟子になりますが、入座してから本名のままで舞台に出演をしていましたので芸名を考えろと言われた師匠は、仲が良かった歌舞伎俳優の二代目中村扇雀さん、今の坂田藤十郎さんの楽屋へ行き、「実は芸名を考えて来いと言われたんやけど」と話をしていると、二代目の鴈治郎さんが「あんたら仲が良いんやから、文五郎の文と、扇雀の雀で文雀はどや」と言われて、扇雀さんに「それでいいか」と聞くと、「僕は雀は千もいてるから一羽くらいゆずっても良いよ」と言われて芸名が「文雀」に決まったそうです。

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手ほどきの師匠の玉市さんが「かしら割り」をされていたので、入門当時からお手伝いをしていたようです。「かしら割り」とは、公演前にそれぞれの役にふさわしい文楽人形のかしらを振り分ける仕事で、役の性格、性根、浄瑠璃の語り口、人形遣いの遣い方、床山さんが二度手間にならないようにと、さまざまなことを考えて、割り振ってゆきます。芝居にもよりますが、一公演で60個から70個のかしらを使用します。師匠は常に三公演先まで使用するかしらを頭の中で割って、床山さんに指示をしていました。横で見ていてもスゴイと思いました。

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私は人形遣いとして本当にうまく育てていただいたと思っています。叩き込まなければならないことは何度でもうるさく言い、自分の工夫でできることは自由に、本人に任せるという教え方で、例えば「人形ごしらえ」は厳しかったです。人形遣いは公演の前に自分が遣う人形は自分で着付をします。しかし師匠が見てこの着付がうまく出来ていないと「これでは舞台で遣えん」の一言で作り直しです。もう一つ厳しかったのは人形の構え方でした。かしらの種類によって構え方を変えろときつく言われました。一方かしらの持ち方は、「ワシはこう持っているけど、手の大きさ、指の長さ、握力は個人差があるので、自分に合った遣い方を工夫しろ」という教えでした。硬軟の両方で育てていただいて感謝しています。いつも「わからない事は何でも聴きや」と言われましたが、わからない事がわかるようになるまでが大変でした。「ワシが十年、二十年かかってわかった事が一言か二言でわかれば、こんないい事はないがな」と言って、何でも教えて頂きました。

役作りに際しては、師匠から芝居をする上で、技術も大事だけど性格、性根の内面と、侍なら石高、身分、女房なら元は腰元か、遊女かとか外的要素もつかんで人物像を造り、何でこの場にいるのか、目的はこれからどうしたいのか、を考えて役を表現するように教わりました。師匠は、主に女形を中心に立役も三枚目も幅広くいろんな役を遣いましたが、私たち人形遣いは、太夫さんと三味線弾きさんが演奏する浄瑠璃を元にして演技をするので、浄瑠璃への理解を高めて遣うことが大事であると、いつも言って、実践していたと思います。

よく師匠の人形は品格があると評価していただいていましたが、その代表が『仮名手本忠臣蔵』の「戸無瀬」であり『妹背山婦女庭訓』の「後室定高」だと思います。二人とも立女形の品格を備えながらも娘に刀を振り上げなければならない役ですが、同じ様に振り上げても、心の中は、義理の娘と実の娘の違いがある事を感じながら演技をしており、それが人物の奥行きを表現し得たのだと思います。
『桂川連理柵』の「お絹」、『心中天網島』の「おさん」など夫や家族への細やかな愛情と、自分を犠牲にしても家を守る芯のある女性を演じていました。好きで楽しそうに演じていたのは、『芦屋道満大内鑑』の「葛の葉」です。狐が葛の葉という女性に化けて子供をもうけますが、正体を知られてしまい元の山へ帰る芝居です。元々師匠は動物が大好きでしたから、愛おしそうに遣っていました。狐ゆえに夫や子供と別れなければならない辛さ、故郷の山が近づくと本来の狐の性が出てくる悲しみの表現が独特でした。

そして師匠最後の舞台になった『花競四季寿』の「関寺小町」は三十代から遣っていた大変思い出の多い作品の一つでした。百歳の小野小町が昔を思い出しながら、無心で舞う、ふと我に返る、そして元の庵へ帰って行く。六十代まではきっちりと演じていましたが、年とともにだんだんと手数が減りました。師匠も無心で気持ちよく舞っているのではないかなと、左手を遣いながら観ていました。師匠の芸は、小細工はしないで、目線をきかして、真っすぐに押し通す正攻法の芸だったと思います。

最後に、この「かしら」は師匠が一番大事にしていた「かしら」です。現在、文楽で使っている「かしら」の九割以上を彫られた大江巳之助さんの作品で、戦後すぐに師匠が母親に買ってもらったものだそうです。文雀の師匠である文五郎が天覧で遣った歴史あるもので、師匠の手元に戻ってからは、師匠が遣い、今回は私が『仮名手本忠臣蔵』の「戸無瀬」に遣わせてもらいました。
師匠からは本当にいろんなことを教えて頂きました。伝統的な仕事は全て同じだと思いますが、師匠、先輩から学んだことを次の世代に伝える義務があります。この義務を果たすのが師匠への恩に報いることだと思います。本当にありがとうございました。

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