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「シリーズ・次世代への遺産 内田 繁」(視点・論点)

武蔵野美術大学 教授 柏木 博

日本のインテリア・家具デザイナーを代表する内田繁さんが、今年11月に亡くなられました。73歳でした。
私は、内田さんと言うデザイナーは常にデザインを問い直し続けたデザイナーではないかと考えています。
今日は、内田さんの作品をみながら、その足跡をたどってみたいと思います。ここからは敬称を略させてもらいます。

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内田は横浜に生まれ、1966年、桑沢デザイン研究所を卒業します。
2年後の1968年に試作品として制作した「フリーフォームチェア」という椅子が、内田の家具デザインの原点となります。
これまで、さまざまな椅子が考えられてきましたが、いずれもしっかりとした構造体としてデザインされてきました。それは、現在でもほとんど変わっていません。そうしたなかで、内田は、座り方によって自由に変化する椅子を実現しようと試みました。
それが 「フリーフォームチェア」です。木綿の布袋の中に、当時としてはめずらしい素材の発砲スチロールの小さな球を詰め込み、自在に変形するいわば巨大な枕のような椅子でした。この椅子は、商品としては成功しませんでした。
けれどもこの試みが、その後、内田がつねに意識していた、家具や室内空間についての既成概念を問い直すことでデザインしていくという姿勢へとつながっていきました。

1970年代から80年代にかけて、内田は、家具、商業空間のデザインを次々に手がけます。この時代の内田の家具の特徴は椅子に見ることができます。
まず、これまでの様式のようなものにとらわれない、幾何学的なフォルムの椅子をデザインしています。
なかでも典型的なのものは、「セプテンバー」、「オクトーバー」、「キサの椅子」、といった椅子です。細い金属パイプを直線と幾何学的曲線によって構成しています。色彩を使わず「黒」にしています。
内田によれば、当初は「空間に消える」ほどに「繊細な存在」にしたかったといっています。ところが逆に「繊細なもののもつ強さ」に気づいたともいっています。
これまでの椅子の形態からはなれて、三角や円や四角といった形態で構成しています。
椅子を抽象的なデザインにすることを意図していました。雑多なものを排除したミニマルなデザインともいえます。それを、内田は椅子の「アーキタイプ」(原型)と述べています。
それは、椅子の歴史的な原型ではなく、幾何学的形態という意味での原型ということでした。
同じ頃にキャビネット「黒い家具」をデザインしています。これもミニマルな表現となっています。アメリカの美術家ドナルド・ジャッドによる1960年代の「ミニマル・アート」を思わせるものです。実際、内田はジャッドから刺激されたとも述べています。

1980年代に日本のファッション・デザイナーが世界的に注目されます。そうした中のひとり、ヨウジ・ヤマモトのブティックを内田は手がけます。かつて、日本の商業空間(インテリア)のデザインは、パリやロンドン、あるいはアジアのどこかにありそうなカフェやバンガローなどの室内風景をイメージさせるものが少なからずありました。
しかし、内田は、そうした具象的なイメージからはなれて、純粋に抽象的な空間を、このブティックで実現します。これもミニマルな表現でした。現代美術におけるインスタレーションを思わせるデザインです。こうしたインテリア・デザインは、その後の商業空間のデザインに多大な影響を与えました。

1989年、紙を販売する店舗「青山見本帖」で、壁面をすべて抽斗にするというデザインにします。5000種類の紙を収納・展示する装置です。ミニマルであるとともに、和服のタンスのようでもあり、日本的なデザインを感じさせます。晩年、内田はさかんに日本的なデザインを探求しますが、これはその萌芽のようにも思えます。
同じ1989年、内田は「ホテル イル・パラッツオ」の建築を、イタリアの建築家アルド・ロッシに依頼します。内田は、ここで室内デザインを担当します。さまざまな建築の歴史的な記憶をみずからの表現としたロッシの建築に、内田はこの頃、強くひかれます。これを契機にして、内田は、歴史的建築物のさまざまな要素を使い始めます。また、それまでほとんど使うことのなかった色彩を自在に使い始めます。
「オーガスト・チェア」では、座や背もたれ、アームは幾何学的な形態ですが、色彩が使われ、脚は高低を調整する古い椅子のデザインが引用されています。

1998年に完成した「門司港ホテル」でも、建築をロッシ、室内デザインを内田が担当というコラボレーションをしています。
このホテルのエレベーターホールのためにデザインした時計は、どこかで見たことのある記憶の中の建築といった印象を与えます。あえて言えば、ジョルジョ・キリコの絵画に表現された記憶の中の建築を思わせます。
記憶の中に残されたデザインもまた、内田にとっては「アーキタイプ」のデザインなのだという意味を持ち始めたといえるでしょう。
他方、「門司港ホテル」では、内田は「茶室」のデザインを手がけます。内田の日本的なデザインへの視点が、はっきりとしてきます。内田にとって「ミニマリズム」と歴史的「アーキタイプ」とを融合したもののひとつが「茶室」だったともいえます。
そうした「茶室」を、さらにミニマルなものへと解釈しなおし、内田は「囲まれた空間」としてデザインします。
「受庵」「想庵」「行庵」という、まるで虫かごのような3つの茶室をデザインしています。たしかに、強固な壁ではないかごによる「囲み」ですが、囲まれることで、外と内の空間が生まれるという、考え方をはっきりと示しています。この外と内を、日常と非日常の空間と考えてもいいでしょう。

2000年代の後半に、内田は、「弱さ」あるいは「弱さのデザイン」ということをさかんに語るようになります。虫かごのような「弱い茶室」をデザインしたことも、そのひとつのきっかけだったかもしれません。
2007年に内田は著作『普通のデザイン』で次のように述べています。
「20世紀は『弱さ』を克服し、強さ、強い社会に向かった時代だったのではないか」「その強さは、20世紀後半になると構築的で規範的、固定的で自由度の少ない状況を生み出しました。デザインを取り巻く生活文化も、資本主義社会の経済優先主義にとり込まれ、合理主義的効率化を通じ、企業利益と強固に結びついたものになりました」
「『弱さ』とは、合理的でないもの、目に見えないもの、手に触れられないもの、あいまいなもの、不定形なものなど、近代合理主義の枠から外れるものであり、それらの抹殺によって、近代はその『強さ』を実現したのです」

人間の「弱さ」とかかわるデザインがどのようなものなのか、それに「着目し、それらの創造の秘密を探り、再発見することから出発しなければなりません」とも述べています。このことが、内田の晩年のテーマのひとつでした。それは、内田が続けてきた日本文化の研究ともかさなっていました。
いずれにしても「ミニマル」「アーキタイプ」そして「日本文化」ということが、内田のデザインの主要なテーマでした。
内田は教育にも熱心であり、母校の桑沢デザイン研究所をはじめ多くの大学で指導しました。また、自身のデザイン事務所でも多くの若手デザイナーを送り出しました。
「まず、部屋をきれいに掃除しろ、それがデザインのはじめ」と楽しそうに笑いながら言っていたのを思い出します。
ご冥福を、お祈りいたします。

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