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「新しい『農本主義』の目覚め」(視点・論点)

農と自然の研究会 代表 宇根 豊

私は今年も、田んぼの畦(あぜ)の草刈りをしていました。夏になると、田んぼの中のおたまじゃくしは蛙(かえる)になって、畦に登ってきます。草刈りしていると、その蛙が驚いて跳びはねます。そのたびに、私はちゅうちょして立ち止まります。蛙を切り殺したくないからです。

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蛙が多い畦では、1メートルおきに一旦停止をくり返しているような感じです。このちゅうちょしている時間を計ってみるなら、たぶん1日当たり10分ぐらいになるでしょう。

さてこの10分間は、仕事の効率を妨げている無駄な労働時間だ、削減すべきだ、と言われています。しかし、こういう要求はまともなものでしょうか。百姓に限らず現代の日本人は、同じものを生産するなら、短い労働時間で生産する方が優れていると考えてしまいます。生産物を経済価値で計り、労働時間も労賃に換算して、生産性という尺度を当てはめるとそうなるのです。
しかし、私はこの10分間は無駄だとは思いません。百姓仕事にとっては、大切な時間です。
もし、私が草刈りの時にちゅうちょしなかったら、多くの蛙が死んでいくでしょう。さらに私は蛙だけではなく、生きもの全体への情愛とまなざしを失っていくでしょう。こういうこともありました。

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うっかり田んぼの水が一枚だけ、完全に干上がって、その田んぼだけおたまじゃくしが全部死んでしまいました。その田んぼに入ると、とても寂しいのです。「そうか、私はいつも、おたまじゃくしに囲まれて、仕事をしていたのか」と初めて気づいたのでした。蛙だけではありません。

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赤とんぼは、田んぼで仕事をしていると、必ず私の回りに集まって来ます。たぶん、私が体を動かすので、稲の葉っぱの虫たちが飛び上がるから、それを食べるために集まって来るのでしょう。
しかし、まるで私を慕って寄ってくるような気になります。「ああ、今日も赤とんぼと一緒に働いているんだ」という気持ちになります。
日本で生まれている赤とんぼは、多い年には、1年間で200億匹にもなります。その99%は田んぼで生まれていますが、みなさん、知っていましたか。

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蛙も97%ほどは、田んぼで生まれています。しかし、田んぼの生産物はあくまでも「米」であって、赤とんぼや蛙などの生きものは、たまたま田んぼに現れる、いわば自然現象なんだ、というのがほとんどの人の印象でしょう。
しかし、百姓仕事は工業の生産とはちがって、目的としていないものまで、育ててしまうのです。あるいは、殺してしまうのです。ここがとても、重要です。なぜ、私が生きもののことから話し始めたかというと、これらの生きものの多くが、減少の一途をたどっているからです。
百姓に時間的な余裕がなくなり、生きものの命に配慮してはおれなくなっているからです。日本の農業はとても近代化され、進歩・発展してきたように見えます。ところがその反面で、どうしてこうした事態になるのでしょうか。
このことの本質を、見事に言い当てていた百姓が、もう80年も前にいました。昭和初期のことです。

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茨城県の橘孝三郎という百姓です。当時はまだ日本国民の約半分が百姓でした。農業の生産額は工業の生産額に追い越されてはいましたが、まだまだ「国富」の多くを占めていました。しかし、農村は極度に疲弊していたのです。多くの百姓は没落し、地主の所有面積は全農地の半分にもなっていました。
橘孝三郎は、なぜ社会が近代化され、資本主義が発達してくると、農業は衰退していくのだろうか、と自分の頭で必死に考えました。

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そしてとうとう、彼は突きとめたのです。
「農業の本質は、資本主義の本質に合わない」と。
橘はその理由を、「百姓は工業とちがって、天地自然を相手に仕事をしているからだ」と言っています。
彼の洞察はとても深いもので、現代でも立派に通用します。いや現代でこそ、もう一度気づき直さなければならないものです。橘たちの思想は、「農本主義」と呼ばれていましたが、現代では、もうほとんど顧みる人はいません。
橘は「農本主義」の真髄をこう語っています。
「百姓は作物を作っているのではない。農を本として天地自然のめぐみを受けとっているのだ。」
作物が育つのは、作物みずからが、太陽の光と空気と水と土と、さまざまな生きものと百姓の力を借りて、生命力を発揮するからです。そういえば、かつてほとんどの百姓は、「米は、つくるのではなく、とれるもの、できるものだ。」と言っていたことを思い出します。
百姓が相手としている天地自然は、生きもので満ちています。毎年毎年、変わらないからいいのです。ところが、資本主義は経済成長を必要とします。なぜならすべての価値を経済価値で評価し、それを増やすことを原動力としているからです。そのためには、常に生産と消費は拡大していかなければなりません。それが資本主義社会の進歩・発展だとされてきたのです。たとえば百年間同じ暮らしでいいとするなら、資本主義は不要です
生きものたちは経済で生きているのではありませんし、百年間変わらない自然環境の方が正常に生きられるでしょう。私が蛙に向かって、草刈り機で切られないように、飛びはねる脚力を2倍にしてくれと要求したらどうでしょうか。赤とんぼにヤゴの時期には、田んぼの水が切れても死なないように努力してくれ、と要求したらどうでしょうか。生きものたちはたぶん、こう言うでしょう。
「いつからあなたは、生きものの生の本質がわからなくなってしまったのか」と。

 近年では、農業はもっと国際競争力をつけるべきだ、成長産業になるべきだ、という声が大きくなっています。TPPに代表される経済のグローバル化に、農業も対応しなければならないと言われています。
みなさん、今年、赤とんぼを見かけましたか。何回、どこで、見ましたか。
経済発展と引き換えに、私たちに見えている天地自然の世界は、どんどん狭く、小さくなってきたのではないでしょうか。
「農本主義」とは、農が社会の土台であるという思想です。農こそは天地自然のめぐみを、農を本として、土台として受けとることによって、経済価値とは別の価値を社会にもたらし、人間の情愛の源を守っているという主張なのです。私は、橘孝三郎たちの思想を現代に生かすための「新しい農本主義」を提唱しています。

現代の農本主義者は、少なくとも農の半分は資本主義の市場経済から外して、国民全体の力で支えていく仕組みを提案しています。そのためには、これ以上百姓仕事に効率を求めないことです。蛙や赤とんぼや風景を支える仕事を評価することです。そして赤とんぼや蛙や風景にも、無償で受け取るのではなく、ちゃんと対価を払ったらどうでしょうか。そうなれば、百姓は経済価値のないものをも、捨てずに大事に守り、社会に提供し続けることができるのです。
 まちがいなく、生きものたちもまた、そう望んでいるのではないでしょうか。

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