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「カンボジア 密林の巨大遺跡」(視点・論点)

上智大学 アジア人材養成研究センター 所長 石澤 良昭

皆さまは東南アジアのカンボジアという国をご存じでしょうか。国旗にはアンコール・ワットが描かれており、本日はその時代の歴史の謎を解き明かすお話しです。その謎を解くきっかけはカンボジアの密林の中にある五大遺跡にありました。

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今から約900年前日本では中尊寺金色堂が建立されていた時代に、カンボジアではアンコール・ワットの建設が始まっておりました。
その同じ時代に、アンコール・ワットから100キロあるいは130キロ離れた地方に5か所の大都市がありました。

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その時代のアンコール王朝は広大な田畑の農業生産と牛車キャラバンによる交易の経済活動で繁栄し、王は35年かけてアンコール・ワットを建設しました。五大都市はアンコール・ワット地方と、雨季でも通行できる歴史街道で結ばれていました。
密林に眠る五大遺跡というのは、アンコール・ワットの約3倍から10倍もあるような大遺跡が、それは当時の大都市ですが、長い年月、密林の中に放置されたままになっておりました。これら五大遺跡については100年以上前からその存在が知られておりました。ただ遠いこともあり、そのまま手もつけられず、放っておかれたのです。
私たち上智大学アンコール遺跡国際調査団は、アンコール王朝の繁栄の社会経済基盤を調べるため、これらの五大遺跡に注目し、2000年から現地調査を実施し、15年かけて、やっとその存在理由がわかってきました。
最初にサンボール・プレイ・クックです。日本ではちょうど大化改新のころに建てられました。その大都城はカンボジア中部にあり、国外にまで知られるほどの大都城市でした。その王朝の繁栄の様子が中国まで伝わり『随書』に「伊奢那城」と記されました。石板に刻まれた碑文では「イーシャーナプラ」と出ています。この遺跡は、7世紀初頭からイーシャーナヴァルマン1世によって建設されました。

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その『随書』によれば、この都城は「郭内には2万余の家があり、城中には大殿堂があって、ここにおいて王は政治を執り、大城の総数は30城、数千の家」があったと記しています。現在残っている遺跡は全部レンガ造りです。

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祠堂の南面には「空飛ぶ宮殿」と呼ばれる浮き彫りがあります。これは、一種の彫刻絵画であり、祠堂のレンガ壁の上に、しっくいを使って彫り込まれています。なかなか臨場感があります。

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次に、コー・ケー都を紹介します。コー・ケーはアンコール王朝第2の都城とされる遺跡で、10世紀前半の時代にアンコールから100キロほど離れたこのコー・ケーの地に遷都がなされました。都城趾は未完成ですが、城壁が1辺1.2キロの大きさです。中心部に「プラ・プラン」という7層ピラミッド型の国家鎮護の大寺院があり、その高さは36メートルです。
この地が王都の首都であった期間は16年間で、当時のカンボジアの宇宙観に基づき神なる王が政治を執り行う都城を造りました。9世紀アンコール地方の最初のプノンバケン都城よりも2倍もある大規模な都城でありました。

3番目はベン・メリア寺院です。

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ベン・メリアは俗称「東のアンコール」といわれ、アンコール・ワットの小型版であります。このベン・メリアはアンコール・ワットから東へ、80キロのところに位置し、寺院の規模は周囲が5.4キロのアンコール・ワットより少し小さく、周囲が4.2キロです。年代はアンコール・ワットより20年ほど早く、近くに良質の石切り場があり、アンコール・ワットを建立するにあたっての練習台としての建物とも言われています。設計図、配置図、塔堂構成、回廊など、アンコール・ワットとほとんど同形式です。

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何よりの証拠はアンコール・ワットの装飾文様をほうふつとさせる丸紋唐草文様、女神像などの回廊の浮き彫りはみごとであります。ここはラオスのワット・プーへ通じる道路を通り、大プリヤ・カーン方面の交差地点にあたります。大集落があり、アンコール・ワットなど寺院建設のために必要な要員を出していたといわれています。

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4番目にコンポン・スヴァイの大プリア・カーンを紹介します。
大プリア・カーンはアンコール時代最大の都市でアンコールから東へ約125キロのところにあります。この地は12世紀末のジャヤヴァルマン7世時代のカンボジア東部の地方拠点であります。

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ここには、1辺4.7キロの周壁に囲まれた巨大寺院があり、アンコール・ワットの約10倍の規模です。中央の本殿は環濠に囲まれており、二重の回廊がめぐらされています。大貯水池が都城内へ入り込んでおります。 
5番目にバンテアイ・チュマールを紹介します。

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回廊にはバイヨン寺院と同じ美術様式の深い浮き彫りがあります。ここの回廊には「千手観音」のような22手の観世音菩薩の有名な浮彫り像が彫刻されております。
歴史人口学の試算によれば、往時この地域は約15万~20万人の人口があり、水利かんがい網により開発が進んでいました。この寺院の建設には、試算によれば約2万人の建設作業員と村人がかかわり、20年、30年かかったと推定されます。
ジャングルの中に埋もれたこれら五大遺跡を概観しましたが、こうした地方大都城とアンコール都城との関係は王朝繁栄の流通システムを探る意味で重要な調査でありました。

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五大遺跡の存在は、アンコール・ワットに匹敵する大寺院と町をつくる地方の社会経済力があったことを示しています。またそこは、地方の中心都市であり、物産の集散地であり消費地でもありました。

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そこには大貯水池が常備されかんがい施設として機能しており、アンコール都城と同じ水利都市でもありました。五大遺跡には、地方の住人が信仰する神仏がこれら大寺院に祭られ、牛車による名刹参詣が行われていたこともわかりました。

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参詣道は踏み固められ盛土版築され、街道とすべての道はアンコール・ワットにつながり、それが延長されて西のベンガル湾岸と車道の南シナ海にとどき、陸のシルクロードとなりました。その中心の中心がアンコール・ワットだったことになります。
密林の五大遺跡と、それをつなぐ歴史街道、大寺院の建設、大かんがい施設、大橋りょうなど、巨大インフラの存在が、アンコール王朝の繁栄と隆盛を、あらためて明らかにしたのです。

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