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「もてなしの極意」(視点・論点)

俳人 長谷川 櫂

 きょうは日本人の「もてなし」について考えてみたいと思います。
二〇二〇年の東京五輪を前にして日本の「伝統文化」を海外に広めようという機運が高まっています。昔から日本人が客を迎えるときに示してきた心遣い「もてなし」もその一つです。
この「もてなし」に世間の注目が集まりはじめたのは三年前、二〇二〇年の東京五輪が決定したときでした。

 このときテレビで滝川クリステルさんが「お・も・て・な・し」と一音一音区切って発音する映像が流れたのを覚えている人も多いと思います。
 あの映像を見た多くの人が二〇二〇年の東京五輪開催を実感し、海外から日本を訪れる多くの外国人を日本の「お・も・て・な・し」で歓待しなくては、と思ったのではないでしょうか。
 このとき以来、「お・も・て・な・し」は時代の流行語となり、いたるところで目にし耳にするようになりました。雑誌を開けば「老舗旅館のおもてなし」とか「三ツ星レストランのおもてなし」という活字が目に入りますし、テレビの旅行番組を見れば旅館の女将が登場して「わたくしどものおもてなしは〜」というのをよく見かけます。

 最近の「おもてなし」の大洪水を前にして「ちょっとした違和感」を覚える人もいるのではないでしょうか。たしかに「おもてなし」は大事だけれども、日本人の「おもてなし」って、こんなものだったのだろうかと疑問に思う人もいるのではないでしょうか。
 手もとの辞書で「もてなし」あるいは「もてなす」を引けば、「歓待する」「馳走する」(『広辞苑』)ことと書いてあります。別の辞書にはもっと詳しく「心をこめて客に応対する」「客に茶菓や酒食を供すること」(『新明解国語辞典』)と説明してあって、「家をあげてもてなす」「茶菓のもてなし(ふるまい)を受ける」という例文まで載っています。
 ここからまずわかるのは「もてなし」という言葉が公認された誰が使ってもかまわない日本語であるということです。

 俳句の世界でも「もてなし」という言葉を頻繁に見かけるようになりました。例えば、

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山国の水をもてなす新豆腐

 この秋、収穫したばかりの大豆で作った豆腐が「新豆腐」です。豆腐は半分は水なので山国のおいしい水こそが「もてなし」だというのです。
 このように「もてなし」「もてなす」という言葉を使った俳句がこれからますます増えてくるのではないでしょうか。
 しかしこのような俳句をみても「ちょっとした違和感」があります。文法が間違っているわけでもなく、意味が通じないわけでもありませんが、この違和感はどこからくるのでしょうか。

 じつはこの「もてなし」という言葉には「秘密のコード」、いわば「極意」があります。それは何かといえば、「もてなし」「もてなす」という言葉はたしかに辞書にも載っている、誰が使ってもいい日本語ですが、めったに口にしてはいけないという「コード」です。
 どういうことかといえば、「もてなし」とは辞書にもあるとおり、客にお茶やお菓子や酒や料理を出して歓迎することですが、「これがおもてなしですよ」とこれ見よがしに口に出していう言葉ではないということです。
 とくにもてなす側が「これが私どものおもてなしです」と口にしたとたん「もてなし」でなくなります。なぜならば押し付けがましくなるからです。「押し付け」は当然、相手に負担をかけ、窮屈にしてしまいます。つまり客を「もてなす」といいながら、そのじつ相手を窮屈にさせ、結局「もてなし」になっていないことになります。

 このチグハグが最近の「おもてなし」ブームの違和感のもとになっているようです。「もてなし」という言葉はほんとうは口に出してはいけない言葉なのです。最近の「おもてなし」ブームはこのもてなしの「コード」を破っているわけです。
 「もてなし」と似た言葉に「おごる」という言葉があります。「晩飯をおごってもらった」「今日のところは俺におごらせてくれ」というふうに今もよく使う言葉です。この「おごる」という言葉は「もてなし」と違っておごる側が使っても、おごられる側が使っても一向に問題がありません。というのは「おごりたかぶる」という言葉があるとおり、もともと「権勢を誇示する」という意味だからです。
 今の「おもてなし」ブームは「もてなす」という言葉をこの「おごる」に近い意味で使っていることになります。

 では本来の「もてなし」とはどういうものなのでしょうか。一言でいえば主が「もてなし」と口でいわずに行動で「もてなす」ということです。お茶やお菓子、酒や料理を出すにしても「もてなし」とはわからないにように出す。
 それを主の「もてなし」であると感じるのは客の側なのです。しかも客が主の「もてなし」を感じるのはその場とはかぎりません。翌日、目覚めたときかもしれないし、何日後かあるいは何年後かに「あれはあの人のもてなしだったのだ」とはじめて気づくかもしれません。それでいいのです。これが日本人の「もてなしの心」であり、日本の「もてなしの文化」であったはずです。
 「もてなし」という言葉があるからといって、「おもてなし」「おもてなし」と口にしていいというものではないのです。口にすればするほど「もてなし」はこれ見よがしになり、表面だけのものになり、品がなくなります。
 「もてなし」と口にしないからこそ客に「もてなしの心」が伝わるのです。その「もてなしの心」が伝わるとき、客は主を「奥ゆかしい」と思うのです。このような「もてなしの心」が今の「おもてなし」ブームからすっかり抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

 日本の「もてなしの文化」は茶道と深いかかわりがあります。千利休にはこれみよがしの「もてなし」を戒める逸話があります。
 あるとき、利休が大坂から京へ上る途中、知り合いの茶人の家に立ち寄ります。もちろん亭主は利休を喜んで迎えます。まず庭の柚子を捥いで柚子味噌にしてこの「不意の客」である利休に出しました。
 ところが、そこでやめておけばよかったのですが、この茶人は酒を出してから「大坂からの到来物(頂き物)」といってふっくらとした 肉餅(今の蒲鉾)を出しました。それまで上機嫌だった利休はこの肉餅(蒲鉾)を見ると、たちまち興ざめして酒の途中で帰ってしまったというのです。(『茶話指月集』)
 なぜ利休は興ざめしたのでしょうか。蒲鉾は当時はたいへん贅沢な食べ物でした。この茶人はその夜、利休がここに立ち寄ることを誰からか聞いて蒲鉾を取り寄せていたことに利休は気づいたからです。
 客を「もてなす」にはあり合わせの柚子で十分であり、贅沢な蒲鉾など取り寄せる必要はなかったのです。ほんとうの「もてなし」が物や言葉の次元ではなく、心の次元のものであることを伝える話です。
 「もてなし」のほかにも日本語の中には辞書には書いてない「秘密のコード」をもつ言葉があります。

 このような「コード」を知ることが日本文化を知るということであり、目に見えない「コード」まで伝えることが日本文化を海外に紹介するということです。
 東京五輪を機に日本を訪れる外国の人々にも、これみよがしの「おもてなし」でなく、「もてなしの心」を伝えたいものです。

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