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「ブラジル新政権の課題」(視点・論点)

第一生命経済研究所 主席エコノミスト 西濱 徹

先月開催されたリオ・デ・ジャネイロオリンピックにおいて、日本選手団は過去最多となる計41個のメダルを獲得するなど、4年後の東京オリンピックに弾みがつく結果を得るとともに、その後に開かれたパラリンピックも成功のうちに終了しました。そのオリンピック及びパラリンピックが開催されたブラジルでは、先月末にルセフ前大統領に対する弾劾裁判が開かれ、罷免に必要な票数を上回る賛成票が投じられたことで同氏は失職し、ルセフ氏が停職している間大統領代行を務めてきたテメル氏が新たな大統領に就任しました。

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ルセフ前大統領に対する弾劾については、政府会計に対する粉飾という容疑であり、国民生活に直接的に大きな打撃を与えるものではありません。したがって、その当初から国内においても罷免に値する罪であるかという議論のほか、当時副大統領であったテメル新大統領の責任を求める声も少なくありませんでした。しかしながら、弾劾手続が開始される前後には、議会内でルセフ氏を支えてきた左派政党である労働者党を取り巻く環境が変わり、新たにテメル大統領代行を支える中道政党の民主運動党を中心に多数派が形成されたことで、最終的に弾劾手続が進められることとなりました。

今後はテメル新大統領の下で、長きに亘る景気低迷によって疲弊しているブラジル経済の立て直しが急務になっています。

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ブラジル経済を巡っては、原油をはじめとする商品市況の低迷長期化が景気の足かせとなるなか、物価高や金融引き締めに加え、国際金融市場の度重なる混乱により海外資金の流出圧力が強まったことで、景気のけん引役となってきた個人消費などは勢いを失っています。今年の4月から6月までの実質GDP成長率も前期比年率でマイナス2.26%と、6四半期連続でマイナス成長が続くなど厳しい状況が続いています。今年の経済成長率は昨年に続いて2年連続でマイナス成長となることが確実視されており、そうなるとブラジルにとっては世界恐慌の時以来、約100年ぶりの景気低迷となります。

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ただし、足下では少しずつ改善の兆しも出てきています。というのも、長年に亘って高止まりしてきたインフレ率は年明け以降減速に転じており、それに伴って消費者のマインドに改善の動きが出ています。さらに、こうした動きに歩調を併せる形で、昨年以降悪化が続いてきた企業のマインドにもようやく底入れの動きが出てきており、景気の底入れが近付きつつあると思わせる兆候もうかがえます。しかしながら、ブラジル経済がこのまま浮揚していけるかについては不透明なところが少なくありません。
というのも、テメル新政権は景気浮揚とともに財政の建て直しという課題にも迫られています。ブラジルでは、財政責任法に基づいて予算段階で政府の基礎的財政収支、いわゆるプライマリーバランスに対する目標を設定することが義務付けられており、ちなみに、ルセフ前大統領が弾劾裁判において問われた政府会計の粉飾という罪は、この目標をクリアするために行ったものです。今年度については、今年5月にルセフ前大統領に対する弾劾審議の可否が議会で承認され、即日停職となった後にテメル氏が大統領代行として予算を修正しており、プライマリーバランスの赤字幅を過去最大の1705億レアル、GDP比で2.75%とすることが決定しています。

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今年7月末時点において、プライマリーバランスの赤字幅はGDP比で昨年通年での実績を下回っていますが、赤字幅そのものを昨年と比較すると、昨年の実績を大きく上回っています。今後はオリンピックとパラリンピックが終了したことで、関連施設の建設などに必要な財政的な負担は軽減すると見込まれますが、例年において年後半の歳出は年前半に比べて規模が拡大するなど、財政赤字が拡大しやすいことを勘案すれば、財政目標を実現するために歳出削減が避けて通れないと考えられます。
なお、ルセフ前大統領の停職後に発足したテメル暫定政権では、財務大臣や中央銀行総裁をはじめとする経済チームの顔ぶれが大きく変わりました。ルセフ政権は左派政党の支援を受ける特徴から、歳出面ではいわゆるバラ撒き政策に偏る傾向がありましたが、テメル政権は中道政党の支援を受けていることで、政策の方向性はルセフ政権の頃から大きく変わっています。具体的には、歳出の重石となってきた年金制度の見直しのほか、助成金や税控除などの制限、義務的な医療・教育費に対する伸びを抑制する考えをみせています。これらの歳出は、長年培われてきたブラジルの制度と密接に絡んでいることを考えると、「聖域なき歳出改革」と捉えることが出来ます。

こうした姿勢は、ルセフ前政権の下で失墜した国際金融市場からの信認の回復に大きな効果をもたらしています。

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今年に入って以降、ルセフ前大統領に対する弾劾手続が進められるなか、金融市場においてはテメル氏が大統領代行として経済政策の大転換を図るとの思惑を理由に、海外からの資金流入が活発化しています。その結果、通貨レアルは米ドルに対して一時年初来安値から3割を上回る上昇をみせ、主要株式指数であるボベスパ指数は足下において年初来安値から6割を上回る上昇をみせています。こうした動きは、テメル新政権に対する金融市場からの期待を大きく反映したものと捉えることが出来ます。
しかしながら、このような「聖域なき歳出改革」を実現するためには、テメル新政権の前に大きな壁が立ちはだかることが予想されます。年金制度の改革など複数年にまたがる歳出削減を実施するためには、憲法改正などの手続が必要になる上、医療や教育に関する歳出の抑制は国民生活にも直結する話だけに難しい問題です。特に、医療や教育に関する歳出については、2014年のサッカーワールドカップや、リオ・オリンピック及びパラリンピックの開催に関連してインフラ関連の予算が拡充される一方、これらの歳出が抑えられたことをきっかけにルセフ前政権に対する反政府デモが全土に広がったことは記憶に新しいところです。こうしたことから、テメル新政権が掲げる政策は決して容易ではありません。

一方で、歳出削減を優先するあまり、比較的手が付けやすいインフラ投資をはじめとする公共投資の削減を中心に行われる事態となれば、短期的には景気の下押し圧力になる可能性があるほか、慢性的なインフラ不足に直面するブラジルにとっては中長期的な潜在成長力の低下に繋がる恐れもあります。さらに、インフラ不足に加えて、税制の複雑さや手続の煩雑さ、さらに、高コスト体質を招いている年金制度をはじめとする手厚い社会保障制度は、外資企業にとって「ブラジルコスト」として同国への進出を躊躇わせる一因になってきました。その意味において、テメル新政権にはブラジル経済が立ち直るための処方せんを着実に実行させることが必要になっています。

実のところ、多くのブラジル国民にとってオリンピック及びパラリンピックは、その招致がルセフ前政権と同じ左派政党が支援するルーラ元政権下で行われたこともあり、ルーラ及びルセフ政権が撒いた「あだ花」とみていた向きも多く、そのことが盛り上がりを欠く一因になったと考えられます。ただ、これまで多くの国ではこうした世界的なイベントの終了が景気の転換点となってきましたが、今回はその前の段階から景気低迷に喘ぐ特殊な状況で開催されました。イベントへの熱狂がなかった分、テメル新政権は淡々と構造改革を進められるかが、今後のブラジル経済の行方を占う大きな鍵を握っていると言えるでしょう。

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