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「アベノミクスの行方」(視点・論点)

富士通総研エグゼクティブ・フェロー 早川 英男

日本選手のメダル・ラッシュに沸いたリオ・デ・ジャネイロ・オリンピックは幕を閉じましたが、国内ではこの夏、オリンピックに先立って2つの重要な経済政策の決定が行なわれました。それは、7月29日の金融政策決定会合で日本銀行が金融緩和策の強化を決めたことと、8月2日に政府が事業規模28兆円に上る大規模な経済対策を決定したことです。これらは、安倍総理自らが「アベノミクスは途半ば」と言われる、経済の足踏み状態を踏まえた対応だと思いますが、専門家の間ではこうした政策対応の妥当性を疑問視する見方も少なくありません。そこで今日は、アベノミクスの始まりから現在までの経済の足取りを振り返りながら、今回決定された金融・財政政策について評価し、今後アベノミクスはどういう方向を目指すべきなのか、考えてみたいと思います。

アベノミクスのスタート時に最も印象的だったのは、急激な株高と円安が進んだことでしょう。株価は日経平均で一時2万円台になりましたし、円ドル・レートも120円台になりました。こうした流れが去年辺りから変わり始めたのが、アベノミクス「限界論」の一因となっているのは間違いありません。しかし、アベノミクス前の日経平均は8千円前後でしたから、今でも株価は当時の2倍以上です。また為替レートにしても、長い眼で見た趨勢値とされる購買力平価は大体1ドル=100円程度ですから、現状が「過度の円高」という程ではありません。実際、円高で輸出が落ち込み始めた様子は見られていません。そもそも株価や為替ばかりで経済の状態を評価すべきではないと思います。

次に物価ですが、生鮮食品を除いた消費者物価指数の前年比は、3年程前からプラス基調で推移しています。この7月の数字は-0.5%でしたが、これには原油価格が急落したことの影響が大きく、その分を除いて見ればプラス基調です。もちろん、日銀が掲げる2%の物価安定目標はなかなか実現しそうにありませんから、日銀は金融緩和の強化を図ったということでしょう。ただ、この原油価格の急落で漸く実質賃金はプラスに転じた訳ですし、直ちにデフレへの逆戻りを心配する状況ではありません。

一番の問題は経済成長でしょう。今年1~3月の実質GDP成長率は年率+2.0%、4~6月が+0.2%でした。今年は閏年でしたから、それで1~3月のGDPを1%程度嵩上げされ、4~6月にはその反動が出たと見られています。実勢としては今年前半+1%程度の成長だったことになります。もう少し長く見て、安倍政権が成立してから3年半の経済成長率を計算すると、平均で+0.7%程度になります。この0.7~1%の成長を多くの人は「物足らない」と感じるのでしょう。もし、これが需要の不足で低成長に止まっているならば、財政政策、金融政策によって「アベノミクスのエンジンを噴かす」のは正しいということになります。

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ここで皆さんにご覧頂きたいのが、7月26日の経済財政諮問会議に4人の民間議員が提出した資料に載っていた、このグラフです。確かに、実質GDPは3年前に想定していたものよりかなり下振れています。しかし、より注目して欲しいのは、その下に描かれている潜在成長率の数字です。あまり馴染みのない言葉かも知れませんが、潜在成長率とは、日本経済がどれだけ成長できるかを表わした「成長天井」、あるいは日本経済の「実力」を示す数字です。これが安倍政権の成立前には、決して高いとは言えませんが2012年には0.8%あったのに、今では0.3%まで低下してしまったのです。毎年策定される成長戦略が成果を生んでいないことが分かります。
実力が0.3%なのに0.7~1%成長しているのなら、これは「低過ぎる」とは言えません。事実、日本の失業率は3.1%まで下がっていますし、ハローワークで職を探す人一人当たりにどれだけの仕事があるかを示す、有効求人倍率は1.37とバブル期並みの人手不足を表わしています。つまり、需要が足りないのではなく、実力が低いから低成長が続いているのです。だとしたら、今必要なのは財政・金融政策による需要喚起ではなく、アベノミクス「第3の矢」=成長戦略によって実力を高めるべきだとなる筈でしょう。冒頭、現在の経済政策に疑問を呈する専門家が多いと申し上げましたが、専門家たちはもっと成長戦略、構造改革に力を入れるべきだと訴えているのです。

この点、注目されるのが、日本政府が経済対策を決定したちょうど同じ8月2日に、IMF=国際通貨基金が日本の経済状況、経済政策を評価する対日審査報告を公表したことです。外部の専門家の見方を代表するものとして、ここに書かれているポイントの幾つかを紹介してみましょう。
まず第1に、この報告書では日本の労働市場を「他国が羨むほど」と評価しつつも、アベノミクスの3つの目標、すなわち2%の物価上昇率、2%の実質成長率、2020年度までの基礎的財政収支の黒字化については、今の政策ではout of reach、つまり「達成できない」と断言しています。これは、主要国の経済政策に対するIMFの評価としては異例に厳しいものと言えます。
第2に、金融政策と財政政策による刺激余地は小さくなっていると指摘しています。日銀の黒田総裁は「金融緩和手段に限界はない」と言いますが、既に国債残高の4割を日銀が買い占めていて、市場参加者の多くは年間80兆円もの国債買入れには早晩限界が来ると考えています。マイナス金利政策についても、なお金融機関や国民の理解を得られていません。巨額の財政赤字を抱える日本に財政出動の余地が乏しいのは常識でしょう。むしろIMFは、「着実な消費税率引上げを伴った信頼される財政健全化計画にコミットすべし」と主張しています。
第3に、成長戦略、構造改革に関しては、とくに大胆な労働市場改革が重要だとの見方を示しました。具体的には、正規・非正規雇用の二重構造を縮小し、女性、高齢者、外国人専門家の活用を訴えています。これは、今回の政府の経済対策でも一億総活躍の推進として取り上げられている内容ですが、踏込み不足は否めません。IMFとしては、この分野でもっと「アクセルを踏込め」、「エンジンを噴かせ」と言いたいのではないでしょうか。
第4の注目すべき点は、物価上昇率を高める政策として、政府が民間に賃上げを促す所得政策の重要性を強調していることです。これを提言の柱に据えたことが、今回の報告の大きな特徴と言えましょう。こうした政策は、安倍政権が以前から官民対話の場などを用いて試みてきたものですが、日本の経済学者、エコノミストにはあまり受け容れられてきませんでした。一貫して賛成しているのは東京大学の渡辺努教授と私くらいでしょうか。しかし、今回のIMFの提言は、金融政策も財政政策も限界が近づいているなら、所得政策の出番という意見が海外では一定の拡がりを持ちつつあることを示すものだと考えています。
もちろん、私自身もIMFの提言の全てに賛成という訳ではありませんが、今ご紹介した内容は、現在政府・日銀が進めている政策と、専門家の見方のズレを象徴的に示すものだと思います。

なお、7月29日に日銀はETF=上場投資信託の買入れ増額を柱とした金融緩和の強化を決定したのですが、現在それ以上に注目されているのは来月の20、21両日に予定されている次回の金融政策決定会合において、これまでの金融緩和政策について「総括的な検証」を行なうと公表したことです。どのような総括になるか予断を許しませんが、私自身は以前から「量的・質的金融緩和でうまく行った部分とうまく行かなかった部分を確認し、必要な見直しは柔軟に行って、市場とのコミュニケーションの再建を図るべきだ」と主張してきました。こうした総括を行なうこと自体は大歓迎したいと思います。

同時に考えたのは、「総括的な検証」が必要なのは日銀の政策だけでなく、アベノミクス全体ではないかということです。アベノミクスのどこが成功でどこが失敗だったのか、消費増税の先送りを繰り返していて、本当に将来の社会保障を維持できるのか、今後アベノミクスはどういう方向を目指すべきなのか、早急に「総括的な検証」を行なうことが必要だと思います。

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