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「ことばの職人 永 六輔さんを偲ぶ」(視点・論点)

作家 落合 恵子

7月7日。永六輔さんが亡くなりました。83歳でした。
職業、肩書と言っても、ひとつやふたつに収まり切らない、尽きることのない多様な才能と、ひたむきに生きるひとりひとりへの好奇心と共感、平和への絶え間ない思いを深く抱いた存在でいらっしゃいました。
また、肩書といったようなものには、こだわらないかただったとも考えます。

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年をとることそれ自体に、私は惜しいなというような感覚はあまりありませんが、何より切ないのは、若き日から現在まで、その存在を後ろから見つめ、思想や姿勢を学んだ先輩を見送ることがあります。
性格的にわたしは人間関係における距離を必要に応じて縮めるということができないたちで、永六輔さんに対しても敬愛しつつ、少し距離のあるところで見つめてきました。
永さんが遺されたお仕事のひとつに、多くの私たちがなじんできた歌があります。
♪……知らない街を歩いてみたい
   どこか遠くへ行きたい。
「遠くへ行きたい」。このうたを聞くたびに行きたいと思いますよね。現実にはどこにも行けなくても。
永六輔さんとコンビを組まれた作曲家でありピアニストの中村八大さんにあかちゃんが誕生した時に贈った詩、♪……こんにちは あかちゃん。
あかちゃんと対面した父親の心境を歌った歌だとも言われています。
歌詞の「わたしがママよ」は本当は「ぼくがパパだよ」だったというエピソードも広く知られています。
♪……黒い花びら 静かに散った
    あの人は帰らぬ 遠い夢
「黒い花びら」。
そして、♪……上を向いて歩こう 涙がこぼれないように。
永六輔さんはご自身の著者の中で、この歌は60年安保の挫折感と遠くに見えるかすかな希望を歌った歌だとおっしゃっています。
東日本大震災の被災地でこの歌を聴かれた時、永さんは自分の歌なのに、自分を越えて広がっている、と実感されたとも記しておられます。
優れた表現物は作者を越えて、それぞれのひとの心の中に根付き、枝葉を広げ、大きな大きな樹木になっていくものだと思います。
♪……見上げてごらん、夜の星を
   ぼくらのように名もない星が。
「ぼくらのように名もない星が」というフレーズがとても印象的な歌です。
ひと握りのまれなる存在、ある意味、とても恵まれた存在を除いて、多くのわたしたちやわたしたちの父や母は、この詩をお借りすると、「名もない星」かもしれません。けれども、その名もない星に、永さんは改めて光を当て、ほかのひとに知らしめ、より輝かそうとされたおひとりでもあるのです。
多くの唄は、この国が高度成長期と呼ばれる時代に作られました。金の卵とも呼ばれた若者たちが、生まれ育った郷里をあとして上野駅に列車で到着する。そしてそれぞれの仕事場に散っていく。哀しいこと、悔しいこと、屈辱的なこともたくさんある……。
でも、「ほら、ここにこんな風に静かに、確かに踏ん張っているひとがいるよ」とか、「いま無念さの中にいる、あなた! ここにも、あなたに似たひとがいるんだから。一緒に歩いてみないか」
と、歌は呼びかけてくれるのかもしれません。
敗戦という終戦から10数年がたって、この国が新しい時代のステージへと踏み出した頃の歌です。
そして、その社会を支えたのは、まさに歌詞にあるように「名もない星」であることを、わたしたちは決して忘れてはならないはずです。
ご著書『無名人名語録』をはじめとして、「商人と書いてあきんど、「職人」等々、多くの「名もない星」たちの、心に響く言葉が収められています。
たとえば、こんな言葉はいかがでしょうか。
・人間、出世したか、しないかではありません。卑しいか、卑しくないか、ですね。
たとえば、次の言葉。
・人間が制御できない科学というのは、科学って言っちゃいけないんじゃ、ないですか?
 中学生の頃から、鉱石ラジオで聴いていたNHKのラジオ番組、「日曜娯楽版」にコントを投稿され、テレビの創成期に立ち会い、ヒット番組を構成し、時に出演者としてかかわってこられた永六輔さん。
ある時からその軸足をむしろラジオに移されました。テレビ番組とはまた違った角度で、
たとえばラジオは、「あなた&わたし」という極めて個人的な結びつき、その瞬間の重なりがあるような気がしています。そして永さんは、そういうラジオの「あなた&わたし」という関係性、それも瞬間を好まれた方ではないかなと、これは勝手な私の想像です。
ご著書を再読しても、永さんが何よりも大事にされてきたのは、市井の人々の暮らしであり、喜怒哀楽であり、胸の奥に密かに抱いたささやかな、けれども確かな、決して手離すことのない矜持、ほこりのようなものであったのではないか、と推察します。
それを言葉にし、歌にし、文字にされてきた永六輔さんご自身も、誇り高い「言葉の職人」であったと私は思います。
終戦の年に12歳だった永さんにとって、平和と反戦はひとりの市民としても何よりも大きな大きなテーマであったと思います。
最期にお目にかかったのは、まさに、永さんが愛してやまなかった市民たちひとりひとりが集まった大集会でした。仮設のステージに車椅子で登場され、短いスピーチをされました。
確かに、あかちゃんに「こんにちは」と声をかけることも……。今夜の空を深々とした気持ちで見上げることも……。まぶたの縁で涙を堰き止めながら上を向いて歩くことも……、どの社会においても、基本は平和なのです。
多くのかたに読まれた『大往生』の中で、菊池寛の俳句を永六輔さんは次のように紹介されています。

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……死者老いず 生者老いゆく恨みかな
亡くなった人はその年のままとどまり、遺されたものだけが年を重ねて老いてゆく様子を歌った俳句と言われています。老いゆくのはわたしたち遺されたものです。けれど、言葉の職人。永さんが遺された数々の言葉と平易な思想を、わたしたちはしっかりと受け継いでいきたいと思います。
永六輔さんより先に、野坂昭如さんが、永さんより後に大橋巨泉さんが亡くなりました。それぞれ独特の、ことばをお持ちになり、発信され続けたかたがたです。
そして、おひとりおひとりの分野を越えて、平和という視点を大事に握りしめたかたです。悔やまれてなりません。
もう一度、いえ、何度でも深く、この先輩たちの存在そのものにわたしたちは学び直したいと思います。
終戦から71年目の夏です。

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