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「老いてから、見えること」(視点・論点)

作家 落合 恵子
  
いつ、どこで、どのようにして、ひとは現在の自分自身になるのでしょう。
ひとの、ひととしての成長は、ある年代を過ぎたら、止まってしまうものなのでしょうか。それとも、幾つになっても、ひとは成長し、変わり得る可能性を有した存在であるのでしょうか。

ついこの間まで、と私には思えるのですが、私は、老いを介護していた母親の中に見ていました。敬愛し、共感する先輩の中にも見てきました。従って老いは、他の誰かの中にある風景であり、季節であり、私自身はその観察者であり、目撃者であり、時には伴走者である……、そんな位置づけでした。
そしていま、1945年、終戦の年に生まれた私は71歳です。老いは誰かの風景でも表情でもなく、私自身の心と体の実感にまさになりつつあるという自覚があります。71歳。この国の戦後の年数を、私はそのまま生きてきました。戦後何十年という時のその年月がそのまま私の年齢です。今年は「戦後71年ですが、戦後がこのままずっと続くこと、わたしたちの子どもや孫がそのずっと先まで戦後が続くことを願い、求めながら、ふっと思い出す遠い日の記憶があります。郷里の街。幼馴染の家の鴨居には、額に入ったモノクロームの男性の写真が飾られていました。その写真の中のひとが、幼馴染の父親であり、その隣の写真の中のひとが彼女の叔父であったのです。「おとうちゃんとおじちゃんは異国で死んだ」と幼馴染は言いました。当時、友だちも私も、「異国」という意味がわからず、私は、国の名前だと思い込んでいました。幼馴染はたしか私よりひとつかふたつ年上で、現在、ご自分の70代を生きておられます。
夕暮れになるとぽっかりと白い花をさく夕顔、水色や紫の薄紅朝顔、向日葵、千日紅、鳳仙花、立葵等々。遅れて、松葉牡丹の種子もせっせと蒔きました。どれもが、ぐんぐんと音が聞こえるような勢いでいま育ってくれています。これらの花は、郷里の家の、飴色に光る縁側の向こう側、裏庭に咲いていた夏の花たちです。それらと再会したくて、種子を蒔いたのです。最近とみに、今しがたのことは忘れるのに、遠い日々の懐かしい記憶だけは昨日の出来事のように思い出すわたしがいます。
4月の末に、一冊のエッセイ集を刊行しました。「質問・老いることはいやですか?」というタイトルです。これを書いている間、タイトルと同じ問いを私は私にしていました。
「質問・老いることはいやですか?」この番組をご覧の、あなたはおいくつでしょうか。老いと呼ばれる年代の中におられるのなら、同じ質問をさせてください。あなたは、老いることはいやですか? 
このエッセイ集にはいくつかの対談も収録されています。映画監督の山田洋次さん、詩人の谷川俊太郎さん。作家であり作詞家でもある、なかにし礼さん。老いをテーマにしたエッセイ集も多い作家の黒井千次さん、お目にかかったとき、すでに100歳を迎えようとされていた写真家の笹本恒子さん。
人生の先輩に私はいろいろな角度から、ひとつの問いを発してしています。質問・老いることはいやですか? と。
人生を山型のカーブで描き、そのカーブが徐々に、ある時から急速に下降していくその下降の線を、従来、わたしたちの社会は「老い」と呼んできたのかもしれません。しかし、老いはただただ下降の季節なのでしょうか。確かに体力は下降しますし、気力と体力は比例するものだと痛感させられる事もあります。記憶力の低下もあります。同世代と話している時、やたら、ほら、あれ、そうそうそれ、という言葉が頻繁に登場します。小説や映画、番組の作品のタイトルや作者の名前、のど元まで出かかっていながら、出てこない時の無念さ、じれったさも充分体験しています。これからはさらに増えるでしょう。
1960年代の米国の編集者であり作家であったマルカム・カウリーは次のようなことを書いています。
……何かを探すのにかかる時間のほうが、探した何かを使う時間より長くなった時……、お心当たりありませんか? あなたの老いは始まっている、というようなことを。朝いちばんの私の仕事は老眼鏡を探すことです。返事を書きたい手紙を探し、机の上に置いたはずの資料を探す……。そんな日々が続いています。ボタンを押すと、ここに眼鏡があります、と、お湯が沸くと音で知らせてくれる薬缶のように、教えてくれるといいのですが、あいにく、眼鏡は無言なのですね。それでも、老いることによって広がるもの、むしろ深まる景色もたくさんあるのではないか、と私は考えています。
私の老眼は現在進行形、でも、何かを見つめる心の視力は、若い頃よりも鮮明になってきたような気がします。
いつかは、そんなに遠くではない明日、私の人生は確かに終わりを迎える、それだけは不平等な社会できわめて公平で平等な真理であると心からうなずくことができれば、あれもほしい、これも、それもという欲望の鎖から自分が気持ちよく自由になっていける実感もあります。
老いとは、たくさんの鎖から解き放たれる実感でもあるのです。今年の桜の季節。こうおっしゃった80代半ば過ぎの先輩がおられます。「来年もこの花を見られると無意識に思っていた若い時よりも、今年のこの花が見納めかもしれない、来年の花は見ることはできないかもしれない、そう思った時、花の色も形も枝ぶりも、その場に吹いている風の感触さえ、この上なくいとおしく思える。とおっしゃっていました。
年齢を重ねることで、よりデリケートにして果敢な体験者、実践者、目撃者、伴走者になれる……。私はそうも考えています。
確かにこの社会は、高齢者に優しくないな、と感じる時があります。高齢者に優しくない傾向がある社会はそのまま、高齢者から最も年齢が離れた子どもにも優しくない社会である、とも言えます。
それぞれの高齢者が長生きしてよかったと思える社会はそのまま、それぞれの子どもが自分に生まれてきたよかったと思える社会であると私は考えます。
ですから、時には果敢に異議申し立ても厭わない、私たちでありたいと心から思います。それこそが、加齢(年齢を加えること)の、醍醐味です。
「老いることはいやですか?」という問いに、私は答えます。老いることはいやではない、捨てたもんではないさ、と。こんなに深まるもの、広がるものがある、と。さらに元気に老いることも大事ですが、健康を損ねたりしても、それがそのまま支えあえるような社会や政治、福祉にするためにも、老いの中にいるものは声を挙げませんか?それは義務ではなく、責任と権利なのではないでしょうか。
米国の女性作家、メイ・サートンのあの言葉、……私から年齢を奪わないでください。働いて手にしたものです……が、その言葉が改めて心に響きます。

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