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「奇跡の一首と『縁語』」(視点・論点)

東京大学教授 渡部 泰明

 和歌は日本の伝統的な詩の形式ですが、いくつかの技法があります。枕詞とか掛詞とか本歌取りなどと呼ばれるものです。

その一つに縁語と言う技法があります。あなたとはよくよくご縁がありますね、などというときの縁という字を書きます。どういう技法でしょうか。一首の和歌の中に一つの単語がある。これをいま単語Aとしましょう。このAが、和歌の中の別の単語Bと特別な関係を持たされている時、AはBの縁語である、とか、AとBは縁語になっている、などと言います。「特別な関係」と言うのが曲者です。特別な関係とは、簡単に言えば、文脈の関係と言葉の上だけの関係の、二重の関係、ということです。例をあげましょう。

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 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
(あなたの愛情が長続きするかどうかもわからず、黒髪が乱れるように、今朝わたしは心乱れて物思いをしています)

 百人一首の待賢門院堀河の歌です。この歌で、「長からむ」の「長し」と「黒髪」が縁語になっています。昔の貴族の女性は、髪が非常に長かったですからね。けれど、黒髪が長いことは、この一首の内容とは基本的に無関係です。あくまで「長し」と「黒髪」との言葉の上の関係だけです。「黒髪が長い」というときの「長し」は物の長さであり、「長からむ」という本来の和歌の文脈では、愛情の末長さという時間の長さです。つまり「長し」「黒髪」というつながりの方は、文脈上の関係とは別の関係になっています。こういう二重の関係を、特別な関係というわけです。これが縁語です。たまたま言葉の上だけで関係があるからといって、偶然に頼っていて、言葉遊びに過ぎないのではないか、と思うでしょうか。違うのです。この偶然が大事なのだ、というお話をいたします。

では、その縁語を見事なまでに用いてできた歌をご紹介しましょう。やはり百人一首に取られている、次の歌です。

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 摂政右大臣の時の家歌合に、旅宿に逢ふ恋といへる心をよめる  皇嘉門院別当
 難波江の芦のかりねの一夜ゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき(千載集・恋三・八〇七)
(摂政(九条兼実)が右大臣であった時に、その家で催された歌合で、「旅の宿りで夜をともにした恋」という題を詠んだ歌    皇嘉門院別当
芦の茂る難波の入り江で、たった一晩かりそめの枕を交わしただけで、命をかけて恋い慕い続けなければならないのでしょうか)

皇嘉門院別当という女房の歌です。私は、数ある縁語を含んだ和歌の中でも、この歌はもっとも絶妙に縁語が使われている歌の一つだ、と思っています。神がかり、といってよいほどのうまさで、奇跡の一首とさえ、呼びたいのです。
『百人一首』に歌がとられましたが、実は皇嘉門院別当は、もともとさほどの歌人とはいえません。この歌が選ばれた理由は、作者よりも、この一首そのものを撰者藤原定家が高く評価したからなのでしょう。そしてわたしは、評価した一番の理由が、この歌の縁語の使われ方にある、と考えています。どんな縁語なのでしょう。歌が詠まれた経緯を再現しながら考えてみます。
まずこの歌は、「旅宿に逢ふ恋」という題を与えられて詠んだ歌です。「逢ふ」とは、もちろん対面しただけではありません。男女がデートして、枕を交わすことです。旅先の宿りで男女が契を交わした、そういう状況を想定して恋歌を詠め、という事を要求している題なのです。こういうテーマで詩を書きなさい、といわれたら、皆さんならどうしますか?私なら、旅先でたまたまあなたと出会った。それは運命の出会いであった、などと表現したくなります。けれど、そう簡単には行かないのです。
実をいいますと、「逢ふ恋」という題だけでもけっこう難しい題です。逢えてうれしかった、とは詠みにくいからです。歌の世界では、恋とは逢えないもの、思いがかなえられないもの、とするのがいわばルールです。恋歌の中の恋は、通常、かなえられない恋であったり、失恋であったりしなければなりません。なぜかといえば、歌の中では、簡単には実現できない、理想的な恋を追求するものだからです。しかも、今回は「旅宿に逢ふ恋」という、さらに「旅宿」という限定が加わっています。旅先で宿泊している時の「恋」の思いの和歌といったら、どういうふうに詠むと思いますか? 都に残してきた妻や恋人を恋い慕う、というように詠むのが普通です。だから「逢ふ恋」とはなかなかなじみにくいのです。ずいぶん厄介な題ですね。
そこで皇嘉門院別当はこう考えたのではないでしょうか。旅先で偶然出会い、一晩一緒にすごしただけなのに、こんなに恋しくなるなんて、という趣旨を詠んだらいいんじゃないか、と。たしかにそれなら、題の要求を満たします。いいアイデアです。問題はそれをどう表現するか、です。
例えば、ただ一夜旅の宿りに逢ひにしを行末ながく恋ひわたるかな
などと詠んだとしたら、何も面白みがありません。題そのままじゃないか、と非難されるでしょう。そうか、「旅」を「旅」と詠むからいけないんだ、どこか都以外の地名を出せば、自然と旅であることがわかるはずだ。そうだ、「難波江」はどうだろう、と皇嘉門院別当は考えたのでしょう。難波江と言えば現在の大阪湾のあたりの地名です。昔は広大な低湿地帯で、一面に生えた芦が有名でした。その「難波江の芦」から、「刈り根」や「節(よ)」が導き出せる。「刈り根」は芦を刈った後の根本の部分ですが、仮初めに寝るという意味の「仮り寝」の意味にもなります。「節」(よ)は節と節の間の部分の事ですが、芦はこれが短いので、特徴的なのです。そして、夜の意味の「よ」を掛けることができます。つまり、難波の芦なら、一夜の仮初めの恋が導けるではありませんか。さらに、難波江は浅瀬の続く港ですから、海の中の道しるべである「澪標」が有名です。これに身を滅ぼして、という意味の「身を尽くし」が掛けられる。船が海を「渡る」ともいうから、恋い続けるという意味の「恋ひわたる」も恋心の表現に使えるだろう、などと言葉の縁が広がってゆきます。縁語です。皆意味が二重になっています。もっとも、あまり欲張ってしまうと、ばらばらになって、収拾がつかなくなってしまう危険性も十分にありました。ところが、これだけ盛りだくさんの縁語が、ぴったりと収まった。一晩だけの行きずりの恋のために、こんなに長く死ぬほどの恋をするなんて、という意味の中にしっかりと当てはまったのです。ただでも難しい題だったのに、鮮やかに言葉の網の目の中に掬い取ったのです。まるで運命の神さまが、見えざる手で仕組んでくれたように。そしてそれは、運命の出会いに翻弄される、というこの歌の内容を際立たせているのです。
 縁語は言葉の偶然を生かします。そしてこの世を生きる運命をさえ感じさせます。藤原定家が皇嘉門院別当の歌を選んだのも、そんな運命的なものを感じたからではないでしょうか。

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