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「愚かなる人、憶良」(視点・論点)

奈良大学教授 上野 誠
 
私は今年で56歳になりますが、古典を勉強して30年、ようやく何か自分なりに東洋における古典、更には学問の理想ということについて考えるようになってきました。それは、1つは自らの愚かさを知り愚かなままに生きる、そういうことではないかと思うようになったのです。

そのきっかけは、日本を代表するお寺のお坊さんでした。そのお坊さんに「ちょっと頼み事がある」と言われ、その頼み事が終わったあとに、「接待をしたいから」と連れて行かれたところが、外国からやってきた踊り子さんがたくさんいるようなところでした。
私は、「そんなところ教育者ですから行くのは困ります」などと言っていたのですが、そこで、お坊さんは、自分のところに包まれているお布施を解いて、その1万円を踊ってらっしゃる踊り子さんの水着にどんどん挟み込んでいくのです。「いや、いくらなんでもお坊さんでしょう」などというようなことを言いましたし、私も教育者ですから、ちょっとこんなところにいるわけには、ということで外に出たのです。その後、このお坊さんは不慮の事故で亡くなりました。
そうしましたら、大変なお金をその踊り子さんたちの故郷の村に寄付し、学校を建てていたということが、亡くなったあとに判明しまして、その愚かな裏側にある人間らしさみたいなことに気づいたのです。

そういう目で万葉集を見ていくと、山上憶良という人がいるのです。天平時代を代表する知識人であって、仏教者でもあるわけですが、この人の右に出る人はないだろうというぐらいの人です。  
その人の歌の中にこういう歌があります。
 
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「銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむに 優れる宝 子に及かめやも、優れる宝 子に及かめやも」という歌です。銀も金も、玉ですから宝石類も、そんなものは何になるのだと。子供というものが一番大切なのだよということを言っているわけです。
私達は今この歌を詠んで、子供への愛情というものが最も大切だという風に読むのですが、そう読むのは誤りなのです。当時は子供への愛情というものを公に言うっていうことは許されなかった。多くの仏教経典の中には、人間の煩悩の中でも一番大きいものは子供への愛なのだから、その子供への愛を断ち切ることが仏教者として一番重要だということが書いてあるわけです。それをあえて否定して、「そうかい?」と、人間らしく生きるということについて言えば、「子供への愛情というようなものを失うっていうことは、どういうことなのだ」ということを、堂々と問いかける文学だ。という風に読まなければいけないのです。
こういう憶良の思想の背景には、「荘子」という書物があるのですが、その中に、こういう教えがあります。車輪作りの職人の話です。ある時、お殿様が本を読んでおられまして、車輪作りの職人がそこにいるという設定で、職人さんがこういう風に言います。「お殿様が読んでいらっしゃる、その本というのは、どういう本なんですか?」「いや、それはな、昔の偉い聖人様が書いた本だから読んでいるんだ」と。すると、いきなりこの車輪作りの職人は、こう言うのです。「そりゃ昔の人のカスみたいなもんで、そんなものは、どうしようもないもんですな。」お殿様は怒るわけです。「なんだと、俺が読んでいる本にケチをつけるのか」と。「申し開きができるんだったらいいけれども、できないんだったら殺すぞ。」こういう風に言うのです。そうすると、「車輪作りというのは大変難しいもので、車軸というものは削りすぎるとばらけてしまうし、削り方が足りないと、中に入りませんから、車軸と車輪の関係っていうのがものすごく微妙なもので、これを一生懸命息子に伝えているんですけれども、息子は上手くなりません。ですから、自分が年を取ってもこの仕事を続けていくしかないんです。」
つまりお殿様が読んでらっしゃる本の教えというものは、亡くなった人の教えであって、それは生きたものではない。自分は今生きて、こういう風に人に伝えることすら難しいのに、そんな昔の本を読んでわかるのかって、こういう話なのです。古典の中の古典である「荘子」が、「古典を読んでもしょうがないぞ」というようなこと言っているわけです。
それに対して「臨済録」という書物は、なんという風に言っているかというと、「昔の先生が言ったことをそのまま書き写しているようじゃダメだ。」これは私に対する一種の警告のように思うのです。つまり、自らの愚かさを知るということ。
最後にもう1つ例を挙げると、「碧巌録」という書物があるのですが、ここに金牛和尚伝という和尚さんお話が出てきます。この話は面白くて、この和尚さんは、ご飯ができると飯びつを持って、「ご飯ができたぞ、ご飯ができたぞ」と寺中を踊りながらふれ回ったっていうのです。しかし考えてみれば、食事こそ修行をしている人達にとっては一番楽しみにしている、その食事の楽しみというものを体で、踊って表しているっていうところに、この金牛和尚さんのこの話の面白さ、すごさがあるわけです。
山上憶良という人は、自分は子供への愛情というものを否定できない、それが仏教経典と違っていてもこれはもうしょうがないことなのであると。むしろ私は、そういうことを求める。自らの愚かさを知り、愚かなるままに生きる。
そういう教えが古典の中にはあります。

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