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「ブラジル五輪と政局の混乱」(視点・論点)

第一生命経済研究所 主席エコノミスト 西濱 徹

今年の夏に、第2の都市リオ・デ・ジャネイロでオリンピックとパラリンピックの開催が予定されているブラジルですが、現在、政治的には混乱が続いています。ルセフ大統領は弾劾裁判に掛かるか否かの岐路に立たされており、弾劾裁判が開かれることが決定すれば大統領としての職務が停止し、オリンピックやパラリンピックは大統領代理の下で開催されるなど、異常事態となる可能性が出ています。

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ルセフ大統領の弾劾手続きが審議される対象となった事案は、2014年度予算における「不正会計」容疑とされています。というのも、ブラジルでは2000年に成立した財政責任法に基づいて毎年基礎的財政収支(いわゆるプライマリーバランス)に対する黒字目標が設定されています。ルセフ政権においてもこの方針が堅持されています。しかし、ルセフ政権は景気減速が続くなか、景気刺激策として実施した企業の設備投資に対する低利優遇措置や住宅購入促進といった政策に必要な支出を政府系金融機関に肩代わりさせ、結果として政府の財政事情を良くみせるように「粉飾」させた容疑が掛かっています。弾劾手続きが進められるためには議会の下院、さらに上院での審議と承認が必要であるため、この話題が上った当初にはここまで事態が混乱するとは考えられていませんでした。
しかし、弾劾手続きは議会を通過し、いよいよ弾劾裁判所が設置される見通しが高まるまで進展しています。弾劾の対象となった政府会計の粉飾行為自体は、確かに法律に違反している可能性が指摘されており、国際金融市場など海外からブラジルを見る目に悪影響が出たとみられる一方、それが直接的に国民生活に影響する内容とはなっていません。にもかかわらず、弾劾手続きが前進した背景には、国民のルセフ政権に対する見る目がここ数年急速に悪化していることも影響したと考えられます。ブラジル経済は、2000年代を通じて高い経済成長を実現し、一時は「新興国の雄」としてBRICsなどの一角に数えられるなど世界的にも注目を集めるとともに、その経済成長によって国民生活も大きく向上してきました。

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特に、ルセフ大統領の前任であるルーラ前大統領の任期はその時期と重なっている上、与党労働者党が実施した「ボルサ・ファミリア」と呼ばれる所得再分配政策により、多くの貧困層を中間層に引き上げることに成功しました。ルーラ前大統領の正式な後継であるルセフ大統領もルーラ政権同様の政策を踏襲したのですが、外部環境の改善に伴う「棚ぼた」的な経済成長によってバラ撒き政策が可能であったルーラ政権の頃と、世界金融危機を経て世界経済を取り巻く環境が一変したルセフ政権の時代とはまったく状況が異なっています。
ブラジル経済の成長の原動力は必ずしも原油や鉄鋼石といった鉱物資源の輸出ではないということには注意が必要です。近年のブラジルの経済成長のけん引役になってきたのは、2億人を超える人口を背景とする旺盛な消費を中心とする内需であったためです。その旺盛な内需によってブラジルは長年に亘り、慢性的な経常赤字、つまり、経済活動に必要な資金を国内で賄うことが出来ない状況に見舞われてきました。とはいえ、先進国を中心とする金融緩和などを通じて、世界的にはいわゆる「カネ余り」となり、かつリスクを取って新興国への投資を行う「リスクマネー」が活発な環境においては、経済活動を行うのに充分な資金を国内外から賄うことが可能でした。しかしながら、世界金融危機を経て世界的なマネーの流れは大きく一変することになりました。さらに、そこに追い討ちを掛けることになったのは、文字通り世界経済の「けん引役」の役割を果たしてきた中国経済の減速が鮮明になったことです。中国経済の減速により、ブラジルにとっては主要な輸出品である原油や鉄鋼石をはじめとする国際商品市況も低下することとなり、ブラジルの輸出には数量のみならず、価格面でも下押し圧力が強まることになりました。さらに、財政状態の悪化により国際金融市場など海外からブラジルに対する見る目が悪化したことで、経済活動に必要な資金が海外から入らなくなり、結果的に景気は減速模様を強めることになっています。

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昨年のブラジルの経済成長率はマイナス3.8%と、世界金融危機の影響が直撃した2009年以来のマイナス成長となりましたが、2009年はマイナス0.1%であったことを考えると、足下のブラジル経済が如何に厳しい状況にあるかお分かりいただけると思います。なお、通常オリンピックやパラリンピックといった世界的なイベントの開催を控える状況では、その少し前のタイミングに競技場をはじめとするインフラ投資のピークを迎える傾向があります。こうした環境にも拘らず、ブラジル経済はすでに大幅なマイナス成長に陥っていることを勘案すると、先行きのブラジル経済は「二番底」を迎える可能性が高いと見込まれています。国際金融市場においては、ブラジルの今年の経済成長率も大方マイナスになるとの見方が強く、仮にそうなれば、ブラジルにとっては世界恐慌の際以来となる2年連続でのマイナス成長となります。

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こうした厳しい経済環境のなかで足下の失業率は10%を上回る一方、インフレ率は10%近くの高い伸びが続くなど国民生活は疲弊の一途を辿るなか、ルセフ政権は有効な打開策を打ち出せずにいたことも、ルセフ大統領に対する国民からの弾劾を求める声に繋がったと考えられます。
実のところ、ルセフ大統領に対する批判はにわかに高まった訳ではありません。2014年にブラジルで開催されたサッカーワールドカップの前後においては、大会開催に必要なインフラ投資に多額の資金が投入される一方、財政健全化を実現するためにバス料金などの公共料金が引き上げられたほか、教育や保健関連、年金などの支出が抑えられたことに対して大都市部を中心にルセフ政権に対する反政府デモが起こる事態となりました。ただし、その際には、あくまでルセフ政権の施策に対する批判の声が中心であり、ルセフ大統領自体の罷免を求めるような動きにはなっていなかったのが実状です。しかしながら、そこから数年を経ても事態が打開に向かうどころか、悪化の一途を辿ったことで国民の間からはルセフ大統領自身に対する不信感が高まったと考えられます。さらに、その流れに追い討ちを掛けたのが、国営石油公社を巡る汚職問題に与野党の多数の政治家が絡んでいることが明らかになったことです。現時点において、ルセフ大統領自身はこの汚職問題に直接関係している訳ではありませんが、与党の現職閣僚を含む多数の有力政治家が関係していることが明らかになったことは、政権に対する不信感を一段と増幅させたことは間違いありません。
そもそもブラジル経済がこれだけの混迷状態に陥った背景には、外部環境の変化に伴う経済成長に甘える一方、かねてより「ブラジルコスト」などと称されることの多かった税制の複雑さや外資企業に対する手続の煩雑さ、さらに、同国の高コスト体質を招く一因である年金制度をはじめとする手厚い社会保障制度の改革といった構造問題に全く手をつけてこなかったことが挙げられます。ブラジル経済が本当の意味で立ち直っていくためには、政権の枠組に拘泥する現在の姿から、必要な構造改革を進めるための道筋をつけていくことが何よりも求められていると言えるでしょう。

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