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視点・論点 「鎌倉の近代美術館」

神奈川県立近代美術館館長 水沢 勉
 
一九五一年十一月十七日。いまから六十五年も前のことです。鎌倉の中心部に位置する鶴岡八幡宮境内に驚くべき建築が誕生しました。神奈川県立近代美術館。現在、鎌倉館の旧館と呼ばれている建物です。「鎌倉近美」。もっと略して「かまきん」と愛称で呼ぶひとも少なくありません。

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これは日本で最初の公立の近代美術館でした。東京の京橋にようやく国立近代美術館が出来るのが、翌年の1952年のことです。
鎌倉の近代美術館の設計を担当したのは、坂倉準三(1901~1969)。1937年に「近代生活における芸術と技術」をテーマに開催されたパリ万国博覧会で建築部門のグランプリを受賞した傑出した建築家です。戦争中は建築家として不遇でしたが、その後、みごとに再起を果たした記念すべき建築がこの鎌倉の近代美術館です。

65年という歳月を経て、すこし古くなっていますが、現在もなお充分に美術館として機能するモダニズム建築です。
セメントと鉄筋という、いわゆるRCではなく、鉄骨にパネルを組み合わせた乾式工法であることも、この建物が、坂倉準三の師の偉大な建築家ル・コルビュジエや、ミース・ファン・デル・ローエといったモダニズムの巨匠たちの精神を継ぐものであることを証明しています。

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平家池に面して建っているその姿を対岸から眺めるならば、平等院鳳凰堂のように、そこに舞い降りたような軽やかな存在感を湛えていることが分かります。そして、視覚的に軽快なのは、実際物理的にも軽量であるからなのです。
その美術館が、神奈川県と鶴岡八幡宮との土地貸借契約の満了をもって、2016年、本年3月末に美術館としての活動を終了することになりました。幸い両者の協議によって、1951年に竣工した旧館の取り壊しは避けられる見通しですが、神奈川県がそこでの美術館活動をその時点で停止し、撤収することは残念なことにすでに決定されているのです。
1978年以来、40年近い歳月をそこで学芸員として働いてきたものとして、そして、現在その館長を務めるものとして、そのことについてすこしだけ思うことをここでお話ししておきたいと思います。
美術館は建物であると同時に活動でもある。コンテナ(器)とコンテンツ(中身)は不即不離です。なにもない空っぽの美術館も、その建築が素晴らしければ、それはそれで魅力的ですが、それだけではだれもきっと「美術館」とは呼ばないでしょう。展示されるもの、そしてそれと緊密に結びついたさまざまな活動がなければ「美術館」ではないのです。
鎌倉の近代美術館は、開館当時、一点の所蔵品もありませんでした。現在は一万四千点を越える作品が所蔵されている。まさに昔日の感あり、ですね、しかし、それは展覧会を中心とする旺盛な美術館活動があってのことでした。

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1951年竣工の坂倉建築が、まっさらな白いカンヴァスであったとするなら、開館当時副館長であった土方定一を中心とする学芸スタッフたちが、そこに「近代美術館」としての絵を描きつづけてきたのです。
それはまさしく「近代」の本質を極東の地にあって問うことでした。当時日本には「近代美術館」は影もかたちも存在していませんでした。世界的に見ても、ニューヨーク、パリ、そしてなんと鎌倉が三番目の「近代美術館」なのです。一九二九年がニューヨークのMoMA、近代美術館の開館年です。鎌倉のMoMAはその二十二年後にはオープンしていたのです。見方によっては早いともいえますし、その一方で、近代美術館という存在の歴史がそれほどに浅いともいえるでしょう。
しかし、鎌倉の近代美術館は、いま思うと驚きですが、開館の時点で、モダニズムの精神を体現する師ル・コルビュジエが唱える(そして師そのひとはそのときまだそれを実現できていなかった)「無限延長美術館」という理念に基づくものであったのです。ただ、敗戦国の日本の神奈川県には、まだ飾るべき「近代」がありませんでした。しかし、だからこそ、この「近代美術館」が日本の近代美術を予見なしに徹底して検証し、そのコレクションを限られた予算のなかで多くのひとの共感に支えられながら形成することができたのです。明治40年、1907年の第一回文部省美術展覧会(いわゆる文展)以来、買いあげ制度によって、すでに同時代美術の一部を収集していた国とは、その点で、いささか事情が異なります。
建物の点でも、コレクションの点でも、それは純粋無垢の近代美術館なのです。ニューヨークも、パリも、そして、1952年の東京も、出発の時点では、既存の建物を利用した施設であり、かならずしも身も心も(コンテンツもコンテナも)モダニズムを完全に体現したものではなかったのです。
鎌倉の近代美術館の活動は、つぎつぎに日本の近代美術史を書き換えていったと同時に、たとえば戦後まもなく夭逝した洋画家松本竣介の重要さはその持続的な活動ぬきにはこれほどまでに広く認識されなかったでしょう、同時代の「現代作家たち」の美術を紹介し、世界的な視野に立った活動へと展開し、所蔵品も飛躍的に増加しました。

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その活動は美術館の枠を越えてパブリックスペースにまで広がってゆき、野外彫刻運動にも大きな刺激をあたえました。それは、後続の日本の近代美術館のあり方ばかりでなく、美術による文化的復興や社会貢献の可能性にひとつの範例を示したのです。
鎌倉の近代美術館は、小規模とはいえ、建物も、活動も、「人類初の無限に成長する近代美術館である」とまで言い募っても、その意味では、間違いではないでしょう。すべてがそこではじまった。それは建物としても活動としても保存され、記憶されるべき、わたしたちのたいせつな「遺産」です。幸いなことに、1951年の旧館については、現在、文化財として指定する可能性が検討されています。それが貴重な文化財として残され、きちんと管理されていけば、その活動に関わる記憶も含め、わたしたちはたいせつなメッセージを未来へと発信しつづけられる可能性が開けてきたのです。
しかも、それは古都鎌倉と絶妙の文化的なブレンディングを醸し出してきたのです。

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航空写真をみるたびに、古い神社の杜のなかに、じつに美しく「無限延長」の理念を体現するほぼ正方形の近代美術館のプランが象嵌されているのを知って、わたしには伝統と革新の理想的な共存をみる思いが募るのです。

鎌倉の近代美術館の閉館。それはわたしたちが経験してきた戦後文化が大きな曲がり角に差し掛かったことを象徴しています。いまわたしたちは、戦後まもない頃ほどに「近代」の意味を真正面から問いかけているでしょうか。やや埃を被った古めかしいものとしてそれを簡単に捨て去り、忘れようとしているのではないでしょうか。わたしにはその疑念がぬぐえません。この曲がり角の傍らでわたしはこう自問しています。「だからこそ、わたしたちは、近代美術館の原点をもう一度しっかりと確かめる必要があるのではなかろうか?」、と。

わたしは、このところ一般公開を1月末に終え、3月末の閉館間近の鎌倉の近代美術館の前に立つたびに、「ご苦労様。あなたこそ、世界遺産にふさわしい」とつい繰り返し呼びかけてしまうのです。

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