NHK 解説委員室

解説アーカイブス これまでの解説記事

視点・論点 「漢字と日本人の心」

早稲田大学 教授 笹原宏之

日本人なのに、漢字を間違えるなんて恥ずかしい。そういう声をよく聞きます。皆さんも、そうお思いでしょうか?
 これは、漢字を作った中国の人のセリフならば分かるのですが、なぜ日本人が言うのでしょう。私たちの祖先は、中国から漢字を学び、日本風にアレンジしました。このアレンジに先ほどのヒントがあるようです。

新たな漢字、国字まで作り出しました。その国字が漢字の本家、中国に伝わることさえあります。扁桃腺や前立腺などの「腺」は、5年前に常用漢字に採用されました。もとは江戸時代に蘭学者が作った国字でしたが今、中国や韓国でも使っているのです。
 「鱈」も国字ですが、今や日本以上に中国で、よく使われています。こういう漢字の交流は、静かに行われているのです。
 一方、漢字は廃止すべきだ、という主張も江戸時代からあります。しかし、一向になくなる気配がありません。それどころか、先日、『日本人と漢字』という本を刊行したところ、漢字への愛着を綴った反響が数多く届きました。日本の人々はパソコンやケータイでたくさんの漢字を使い続けているのです。
  ただ、「木」はハネたら×だ、といった意見も聞かれます。これも、やや日本人らしい几帳面すぎる考え方で、現在、文化審議会の国語分科会で、この類は本来問題がないことを示す指針を作っております。
 国字を作っても構わない、という漢字の緩やかな面に反して、一問一答式の堅苦しい問題やクイズがテレビ等で、はやるのも、律儀になりすぎる面と関わっています。
 その一方で、現実の社会では日本人は、大らかに漢字を使っています。
「秋桜」と書いてコスモスと読ませる当て字はすっかり定着しましたが、もとは40年ほど前に山口百恵さんが歌った曲の名から始まったものです。自然を愛する心に、秋や桜の字の情感がしっくりきたのです。
 几帳面に考えると、当て字は悪い、と言いたくなるでしょう。しかし、そもそも自分たちを指した「倭」、背が低いという意味の漢字をやめて、温和、和やかといった意味を持つ「和」を選んで当てたのは、奈良時代の名もない人でした。当て字は日本の伝統といえます。
日本の漢字は表意文字の性質を最大限生かし、読み方も自由自在です。スイッチに書かれた「切」は、心の中で何と読んでいますか? 「きり」「きる」のほか「きれ」、さらに「オフ」と読んでいる人もいるように、日本では漢字の読み方に多様性があるのです。
 しかし名前に使われる「奈」の意味を尋ねると、大抵考えたことがない、奈良の奈、といった答えしか出てきません。リンゴの一種という意味は忘れられていて、曖昧な意識がうかがえます。
 漢字の成り立ちでも、イメージばかり膨らみます。
「桜」は、木の横にいる女性に花びらが舞い散っていると、美しい見立てをする人が多いのですが、もとはユスラウメを表すために「木」と、音読みを示す「嬰」とを組み合わせ、略した形にすぎません。
日本人の想像は豊かです。「渋谷」、関西ではシブタニ、関東では方言によってシブヤと読みますが、この「渋」も、若い人たちには古い字体「澁(澀)」がほぼ忘れられています。右下の4つの点は、スクランブル交差点を表す、と歴史を考えない妄想のような解釈がよく聞かれます。
 「触」は「手を触ってきた」「手に触れてくれた」と使い分けます。やまとことばの微妙なニュアンスの違いを訓読みと送り仮名により区別しているのです。
 「主」は、音読みでシュ。どこにいるでしょう? 天ですね。あるじは? 家でしょう。ヌシは? 沼ですね。
和語と結びつくことで漢字は中国から離れ、日本人の血となり肉となった、それで自分たちの文字となったのです。
リュウ・ドラゴン(たつ)を表す「龍」「竜」は、どちらが強そうでしょう。大抵画数の多い方と答えます。中国製のバリエーションにすぎませんが、日本人は字面の醸しだすイメージを感じ取って、細かくニュアンスを分けるのです。
日本は別名保存を好みます。他の漢字圏は新しいものだけを残すように上書き保存をしていき、結局、漢字を廃止しました。
バスがコムは、「混む」か「込む」か。元々はしんにゅう(しんにょう)の方でしたが、常用漢字表も、現代人の意識と使用の変化をふまえ、5年前にさんずいの方も追認しました。漢字の変化を生み出していたのは私たちだったのです。
多くの人は、「生卵」と「玉子焼き」とでタマゴを書き分けます。調理が進み、「ゆでたまご」辺りから生々しい卵(らん)の字が嫌われるのです。私は、こういう感覚を語感にならって文字感、表記感と名付けました。
 漢字の「簞笥」ひらがなの「たんす」カタカナの「タンス」、どれも間違いではありません。むしろ女子学生は、おばあちゃんの、お母さんの、私の、という使い分けを語ってくれました。漢字があるお蔭で、ニュアンスの差が細やかに表現できてしまうわけです。
 雰囲気を重視する日本人は、外来語のコーヒーにも当て字を生み出しました。
漢字の「珈琲」を見ると、髭のマスターがこだわりの豆選びを、などとストーリーを語り出す人がいます。表記の高級感や本場感から、経済効果さえ生み出すのです。民主主義を支える選挙のポスターでも、この表記感が利用されていることに、皆さんお気づきでしたでしょうか?
「五月蠅い」は明治に作られた当て字ですが、今の若い人たちは「八月蟬い」と書き始めています。生活環境の変化は、知らない間に漢字にも及んでいるのです。
生まれ持った癖を意味した「性癖」という熟語は、字面のせいでフェティシズムという意味に変わってきました。漢文離れが進む中、性善説などの用法が忘れられているのです。名前では「未歩」さんも、いまだあゆまず、ではなく、未来へ歩むとして増えています。
漢字は凝縮力があって便利です。しかし、「座薬」を文字通り、座って飲む薬と誤解し、体調を悪化させる例もあります。漢字は万能ではありません。
 縦書きが減る中で、「手」を横書きする際に、真ん中の縦線を逆に右にはねて「毛」のように書く人たちも現れています。
 「躾」という国字は、社会の変化に伴い、エステと誤読する人も増えてきました。
 「才色兼備」の字を問えば「菜食健美」と書く。コンビニ弁当やペットボトルの字の影響を受けているようです。
 パソコンやスマートフォンなども、思わぬ変換ミスを生み出します。
  ここまで、日本の漢字の変容を示す実例を紹介しましたが、話の途中から、このまま定着すると困る、という漢字がありませんでしたか?
 世界一多様な要素と複雑な機能を備えるに至った日本の漢字は、私たちにとって、何なのでしょうか。
 私には、禁断の果実と思えてなりません。日本人は、仮名とのバランスや、読みやすさを考えながら、漢字に繊細な情緒と細かいニュアンスまで盛り込もうとするのです。
  私たちは「漢字は奥深い」と言って考えることを放棄しがちです。祖先が育んできた漢字の自由な面だけを広げていけば、皆が読めるツールとしての力を失います。「ことばは生きている」、これは誤解へと導く決まり文句です。生きているのは私たち人間です。そして自由と好き勝手は違います。
ことばや文字を生かしているのは、私たちだ。という自信と責任感を持ち、場面ごとに最適な文字を考えて使っていくことが、漢字を良くしていくために大切なのです。

キーワード

関連記事