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視点・論点 「書を書くこと 文を書くこと」

書家 石川九楊
 
 私は、これまで約一〇〇〇点の書の作品をつくる一方で、また一〇〇冊の本を書いてきました。
 ひたすら書の作品づくりに専念したかったのですが、書の見方、感じ方についてあまりに誤解が多く、やむなく書とはどういう表現であるかについて、一〇〇冊もの本を書くことになったのです。
この二つの仕事を通じて、同じように「書く」ことであっても、書を書くことと文を書くこととの間に大きな違いがあることを体験してきました。

私の場合、朝に作品を作って、夜には原稿を書くというような芸当はできず、おおよそ週単位で書に向かう日と評論にとりくむ日を分けています。それだけではありません。その切り替えに一日、二日かかります。とくに原稿から書に移るときには、墨を磨りながら想いを練り上げ、書の制作者としての気持ちを昂らせるための時間が必要です。
そして、書の作品をつくりつづけているときには、文章を書こう、作ろうという気持ちは少しも起きてきません。また逆に文章を書いているときには、書の着想も構想も浮かんでこないというだけでなく、書を書こうという気になりません。
同じように詩や文や句を書くにもかかわらず、このような違いは、なぜ、どのように生じてくるのでしょうか。
それを説明するために、まず、書とはどのような表現であるか考えてみます。書についてとても大きな誤解があります。
その最大のものは、書というと、習字や書道の教師やその作品をまっさきに思い浮かべることです。実は書は、文字と文の歴史とともにはぐくまれ、ありつづけてきたもので、文字の基礎教育に終始するものではありません。日本を例にとれば、聖武天皇や嵯峨天皇などの天皇、空海や良寛などの僧侶、小野道風や藤原行成などの貴族が書いた詩文や手紙や経文、歌などに書が花咲いたことを思い起こせば、それは明らかでしょう。
ところが、近代―明治時代以降、書をとてもちっぽけでささいな表現だと考えるようになりました。その結果、書に対する三つの誤解が根づくことになりました。
まず書を見て、「うまいかへたか」と考えること。ついで「よめるよめない」と悩むこと。そして文学を図形のように見なすことです。
「うまいかへたか」というのは、習字教育上、技能をどれだけ身につけたかという判断にすぎません。書はそのような教育の先につくられる複雑な表現であって「うまいへた」で評価できるようなものではありません。また、近年は、毛筆で字を書けばそれが書だと考える人が多いようですが、そんなにやさしいものでもありません。ついで、書を目にすると、つい「何と書かれているか」と読み下そうとします。むろん当然のことですが、しかし、書は「何と書かれているか」ではなく、「どのように書かれているか」の表現です。
 
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たとえば右の図は、江戸時代の僧・良寛が書いた「春」「花」の字。左の図は江戸時代の僧・慈雲が書いた「春」と「花」です。
近代の文学的な考えでは、いずれも同じ「春」「花」の字にすぎませんが、同じと言って済ませられるでしょうか。
右の「春」「花」は、一点一画が細くて繊細、端正でありながらも、ふっと力のぬけるところのある書きぶりです。左では、荒れて割れた筆毫で、少ない墨が紙にゴシゴシとこすりつけられています。その「どのように書いたか」の表現の違いは「春」「花」と書いたか否か以上に決定的な出来事であることは一目瞭然でしょう。
そして、この書きぶりは、文の書きぶりである文体、あるいは作者の生きるスタイルと密接な関係をもっていると考えられます。「書は人なり」という言葉は、ここに生じています。「書はスタイルなり」といえばもっと正確でしょう。書は「何と書かれているか」ではなく「どのように書かれているか」の表現です。
 また、書を絵のようなものと考えるのも誤解です。しばしば書を語るときに「書は線の芸術」「線がきれい」あるいは「線が荒れている」などといいますが、この「線」とは一点一画の書きぶりを指しています。
 文章は文字から、そして文字は一点一画からなるものであって、文字は線からなる図形ではありません。書はどこまで行っても文の書きぶりの表現です。
 ところでたいていの人が正月に年賀状を受けとられたことでしょう。肉筆、手書きの年賀状は、うれしく、またなつかしく、逆に印刷文字の年賀状には、大きく何かが欠落した、いわば喪失感を感じるのではないでしょうか。
 それは文字を生む「肉筆」の厖大な「肉」の表現が欠落しているからです。
 
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 たとえば、「春」という字は、九つの点画から成立しています。そして一つの画は、筆が紙に接触したときの起筆、点画の本体である送筆、そしてひとつの点画を書き終えて次の画に移る終筆の三つの違った力がはたらいています。それだけではありません。人前で署名するときに、こきざみに手や指がふるえることがありますが、肉筆では、このふるえが字を書く時の基本の単位となります。肉筆の「春」の字は、いわば手垢にまみれているのです。
 書は、この手垢にウエイトをかけて、詩や文をかきます。このため、ときには判読の困難ないわゆる「読めない字」が誕生することがあります。また点画の表現に意を注ぐあまりに、良寛の書のように、誤字・脱字がしばしば出現する例もあります。
 これに対し、近代になって文は活字印刷物や本として出版され、社会に通行することになりました。このため、肉筆は原稿背後にかくれ、文の基本単位は文字にあると考えるようになりました。そこから、近年のローマ字を打ち込んで漢字をとび出させるという、アクロバティックなワープロ・パソコン作文が一般化することとなりました。
 
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 手垢にまみれた重苦しい肉筆とは異なり、ワープロ・パソコン作文では、文字の背後はカラッポです。そのため身軽になった文字と文字とは軽がると結合し、洪水のように文字が氾濫することになったのです。
 肉筆の手紙を書くのは億劫だが、もらう側になるとうれしいのはこのような文字のちがいに生じています。
 ワープロ・パソコン作文と手書きでは、同じ作者であっても、必ず違った文をもたらします。その意味で、肉筆の原稿にこだわる作家がもっと増えていいと私は考えています。

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