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視点・論点 「新作歌舞伎『道元の月』に見る演出」

明治大学教授 福田 逸

今日は、新作歌舞伎『道元の月』を中心に、歌舞伎の演出についてお話し致します。この演目は、昨年亡くなった坂東三津五郎の主演で評判になったものです。 
ただ、本題に入る前に、まず「演出」とは何か「演出家」の仕事とはどういうものか、簡単に御説明致します。

例えば、シェイクスピアの歴史劇、『リチャード三世』――主人公リチャードの悪党ぶりを描いた作品ですが――これをヒットラーとナチス・ドイツになぞらえて、現代の軍服姿で上演した舞台を観たことがあります。時代やテーマをそういう形で「解釈する」ことも演出家の仕事です。
数年前には同じくロンドンで、ギリシャ悲劇、『アンティゴーヌ』を観ました、が、これは2500年近く前に書かれた作品であるにも拘わらず、現代の、しかもアメリカのホワイトハウスの大統領執務室を舞台に、演じられていました。

 このように、「主題」の捉え方や「時代設定」をどうするか決めるのが、演出の大きな役割の一つと言えます――演出する作品の方向性を決め、それに伴う統一感を生み出していくわけです。
そのためにチームとしてのスタッフがいる――装置家・照明家・作曲家・衣装・音響など、専門家集団が演出家を支えてくれます。

一例を挙げます。仮に、主人公が不安におののいて、緊張を強いられている場面があるとします。その場合、例えば、舞台全体を暗めにして、背景には黒味がかった赤い色が渦巻くような照明を出してもらう。音楽は不気味で、旋律も不安定な落ち着かない曲にする。あるいは、人の感情を逆なでするような効果音などを出すなどして、役者を助けるわけです。

 さて、本題の歌舞伎ですが、江戸時代から明治半ばまでに書かれた、いわゆる古典歌舞伎の場合には、基本的に演出家はいません。いるとすれば、いわゆる座頭(ざがしら)と呼ばれる、その舞台の中心になっている役者です。
皆さんご存じの『勧進帳』のような演目では、主人公の弁慶役者が座頭として責任を持つことになりましょう。しかし、このような古典の典型となる演目では、演出や演出家にとって代わるのは、むしろ、代々受け継がれた「家の芸」であり、「型」になるわけです。
 
 それに対して、明治になって新しい演劇運動が起こり、坪内逍遥など歌舞伎の世界の外にいた人々が新たな戯曲を書き始める――これを、「新歌舞伎」と呼んでいます。逍遥の『桐一葉』、岡本綺堂の『修善寺物語』などがそれです。
 これらの作品になると、古典歌舞伎と違って、いわゆる演出家が必要とされ、多くの場合、作者自身が演出を受け持ちました。

 さらに、現代、新たに書かれた作品を「新作歌舞伎」と呼ぶことがあり、この場合、私のような外部の演出家が呼ばれることがしばしばあります。
これからお話しする『道元の月』は、再演に耐えうる、現代の数少ない名作です。平成14年に書かれた作品で、私が演出を担当しました。作者の立松和平さんは、惜しいことに平成22年に亡くなってしまいました。
『道元の月』は旧歌舞伎座での初演の後、京都の南座、名古屋の御園座と再演を重ね、新しい歌舞伎座で、近々再び上演されるはずでした、しかし、主演の坂東三津五郎の急逝で、上演は途絶えてしまいました。再演が望まれるところです。
  
この作品から装置や照明に関する二、三の例を挙げて、新作歌舞伎ならではの演出の例をお話しします。
 第一幕では、永平寺の方丈と座禅堂を舞台に、夜明け前から早朝まで、時間が経過します。従って、観客は開幕から30分ほど、薄暗い夜明け前の場面を見せられる――鬱陶しいとでもいうか、気持ちが晴れません。そしてその幕の終り近く、道元禅師が静かに「仏道の慈悲心」について、弟子たちに説き聞かせます。夜明けにホトトギスが啼く。それを聴いた道元が弟子に舞台正面の板戸を開けさせます――青葉鮮やかな山々が観客の目に飛び込む――この場で、私は制作スタッフや装置家と相談して、板戸を開けると同時に、乱暴にも屋根を全部飛ばしてしまいました――山々の 青葉の鮮やかさを存分に見えるようにしたのです。

【道具帳実物】
 ご覧の二枚は、「道具帳」といって、歌舞伎の装置家が必ず書いてくれる舞台正面図です。上が、夜の図――下が、夜明に板戸を開け放ち、屋根を飛ばした図です。

 こうした、屋根だけを飛ばすなどというのは、古典歌舞伎ではまずあり得ないことですが、「青葉の永平寺」というタイトルが付いている場面でもあり、悟りきった道元の清らかな精神を、私は視覚的に観客に訴えたかった 。有難いことに、本番ではここで毎回、いわゆる「じわ」――客席のどよめき、が起こりました。

  同じような「じわ」は、「雪の永平寺」と題する第三幕 の幕開きでも起こりました。ここでは、歌舞伎座の裏方が呆れるくらい、大量の雪=紙ふぶき=を降らせました。拍手が起こる日もありました。決して、「お遊び」で大量の雪を降らせたわけではなく、雪の中で、早朝から修行僧たちが、井戸水を汲んで、食事の用意をしている、その寒さを、私は伝えたかったのです。
そして、この二つの場面には、「青葉の鮮やかさ」あるいは、「しんしんと降る雪の朝の寒さ」を強調する音楽も付けてもらいました。

 その音楽ですが、『道元の月』では古典歌舞伎に使われる、伝統的和楽器ではなく、作曲家に、アジアの民族楽器などを組み合わせて、清らかで「透明感」に溢れた曲を作ってもらいました。私の要求より先に、作曲家が曲のイメージをどんどん出してくれました。これこそ優れたスタッフであり、そういう演出チームを作ることは、歌舞伎のみならず、どんな舞台にでも必要不可欠のことです。

 照明の例を一つ挙げます。古典歌舞伎では、殆どの場合、舞台全体が均一の明るさで照らされているのは、ご存じのことと思います。『道元の月』でも、第二幕、鎌倉の執権北条時頼の館 の前半も、同じように、舞台全体が均一の明るさで、照らされています。

が、やがて、時頼の依頼を聞かない道元を、時頼が手打ちにしようとする場面になります 。

座禅を組んで微動だにしない道元、討とうにも道元の静けさに太刀を振り下ろせぬ時頼――緊迫した場面です。
ここでも、古典歌舞伎では、まずあり得ないことですが、私は二人にそれぞれ別の方向から強いスポットライトを当て、周囲は殆ど闇になるほど暗くしました。

 最後に、効果音の例を一つ挙げます――夜明け前の座禅堂の場で、物音一つしない静けさを出すために、永平寺の境内を流れる、小さな谷川の音だけを流すことで、却って「静けさ」を強調しました。

 
 大雑把に申し上げて、このようなことを考えるのが演出家の仕事と言えます。しかし、お話ししたことの一つ一つは、観客が無意識に受け取ってくれればいいのです。
 
芝居というものは、根本的に役者と観客のものです。演出家は稽古場で、いわば観客代表として仕事を済ませる。そして、初日が空いた瞬間から、演出とか演出家は、客席に溶け込んで姿を消すべきものだと、私は考えております。

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