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視点・論点 「いにしえの恋歌」

東京大学教授 渡部泰明

 今日は、恋の和歌についてお話しいたします。新年早々でもありますから、『百人一首』の恋の歌をとりあげましょう。『百人一首』には恋の歌がとてもたくさん入っています。『百人一首』に限らず、和歌では恋が重要なテーマとなっています。どうしてこれほど恋の歌を詠むのでしょう。

次の歌を見てみましょう。

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 祐子内親王家紀伊
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ
(うわさに聞いている高師の浜にたつ、消えやすい波は、袖に掛けないようにしよう。濡れてしまったら困るから)
という意味です。高師の浜というのは、和泉国、今の大阪府南部の地名です。高師の浜の浜辺にいる人物が、寄せて来る波に濡れないようにしよう、と言っているわけです。でもそれは表の意味で、本当に言いたいことは違います。「あだ波」の語に気をつけてください。「いたずらに騒ぐ波」と云う意味で、口先ばかりの、不誠実な気持ちのたとえとなっています。「かけじや」も、「波をかけまい」と「あなたに心を掛けまい」をかけています。「袖の濡れもこそすれ」は、「涙で袖が濡れたら困る」という意味でもあります。つまり本当に言いたいことは、「口先ばかりの浮気者だと評判のあなたを信じたりするまい、裏切られて泣くことになったらいやだから」ということになるわけです。
 浮気で有名なプレイボーイに言い寄られて肘鉄を食わせる、という内容だと想像することは、それほど難しくはないでしょう。でも拒絶するならするで、もっとはっきり嫌だと言った方がよいのではないか。なんで、高師の浜の波の事を歌い、本当に言いたいことを裏に隠さなければならないか、疑問に思えないでしょうか。
 波にこだわったのには、訳があります。それは、この歌が返歌、つまり贈られた歌への答えの歌であるからです。贈られた歌とは、こういう歌です。

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 堀河院御時の艶書合(けさうぶみあはせ)によめる 中納言俊忠
人しれぬ思ひありその浦風に波のよるこそ言はまほしけれ(金葉集・恋下・四六八)
(誰にも知られずあなたを恋しく思っておりました。荒磯に吹く浦風によって波が寄るように、あなたに夜お会いしたく思います)
という内容です。「よる」は「波が寄る」と「夜」の掛詞です。
相手が、波に言寄せて言い寄って来たので、その波という語句を受け止めて、歌を返したのです。男の方が、せっかく「波」を使って工夫して歌を詠んだのに、その波は口先だけの「あだ波」でしょう、と切り返されて、男の方はぺしゃんこになってしまったでしょう。
 それだけではありません。この祐子内親王家紀伊の歌は、非常に手が込んでいるのです。「高師の浜」という地名が実に有効に働いています。「音」が高い、つまり名高いということになりますし、あだ波が高い、ということでもあります。高波が立って、うるさいほど波音を立てているイメージですね。下の句の「かけじや」の「かけ」も、袖が濡れるのも、みな波と関係あります。つまり、「波」という相手の言葉を受け止め、この語を中心にして、みなそれとしっかり関係づけられていて、無駄な言葉がひとつもない。精密にからみあっているのです。
 さて、この俊忠と紀伊の歌のやりとりなのですが、実は現実の恋の渦中での歌ではありません。虚構の恋のやりとりなのです。
『金葉集』の詞書(詞書とは歌の前書きですね)にあるとおり、「堀河天皇の時代の、艶書合」で詠んだ歌合です。「けそうぶみ」とはラブレターのことです。堀河天皇の命令で、男性貴族が宮廷女房たちにラブレターの和歌を贈り、女房たちがそれに返歌する、という遊びを行ったのです。男の歌は求愛の歌、女の歌はそれをはねつける歌、というパターンとなります。引き続いて、女から恨みの歌を贈り、男がそれに言い訳をする、という組み合わせも詠まれました。康和四年1102年のことです。
 なんだ、本当の恋の歌じゃないのか、と、残念に思う方もおられるかもしれませんね。内幕を話せば、この時祐子内親王家紀伊は、かなりの老齢です。すでに40年以上歌人として活躍していました。おばあさんの恋歌ということになります。けれど、宮中という場所での催しですから、彼らも真剣です。芸歴40年以上の、歌人としてのプライドがかかっています。先ほど述べたような、この歌の精密な言葉の組み立ては、そのプライドが見事に発揮されたものといえるでしょう。いわば老女優の、渾身の演技なのです。
 たしかに紀伊の歌は演技している歌ですし、虚構の産物ですが、そもそも、恋と演技や虚構は相容れないものでしょうか。現代の私たちの恋愛でさえ、クリスマスのデートやサプライズのプレゼント、ひいては結婚式など、ずいぶんイベント性に富んでいます。イベントの中で私たちは、多かれ少なかれ、演技的にふるまいます。広い意味で虚構性を伴った行動をとる、といってよいでしょう。まして、いにしえの和歌でいう「恋」は、恋愛と同じではありません。宮廷を中心とする貴族の公的な生活の中で育てられた、もっと社会的なものです。個人的な感情や情動にとどまるものではありません。そして恋の歌は、感情や情動を言葉によって社会化し、人々の間で共有する事を可能にします。演技は、心を皆で共有し、社会化するための重要な方法なのです。
 ここで、和歌全体に話を広げてみましょう。和歌というのは、心を表す、詩の一種です。でもどんな心でも表すわけではありません。和歌は、基本的には、こうであってほしい、という願いを表す詩です。願いが強くなり、そして純粋なものとなると、それは祈りに似ています。それで私は、和歌を「祈りの文学」と呼びたい、と考えています。
 そういう願いの詩、祈りの文学としての和歌の性格が、もっともはっきり表れたのが、恋だと思います。恋ほど、あの人と一緒にいたい、同じ気持ちになりたいと願い、祈るものはないからです。和歌で、恋が重要なテーマになっているのは、そういう理由があるのです。
 紀伊の歌をもう一度見てみましょう。浮気者で口先ばかりのあなたの言葉を真に受けて、あとで泣きを見るのは御免です、と一見厳しくはねつけているだけのように見えます。でも本当に嫌いならもっとそっけないはずでしょう。問題外だ、などというふうに。
もう一つ、「あだ波」という語句が、相手の俊忠の歌の、「波」のイメージを受け止めていたことも思い出してください。言葉の上でも、相手を受け止めているのです。しっかりコミュニケーションを取っているのです。社会的なのです。
いにしえの恋の和歌は、願いや祈りの言葉として演技することで、激しい感情を社会的なものとします。個人的な情動や情念をも皆で共有できるものとするのです。虚構の恋歌である祐子内親王家紀伊の歌は、むしろそれを端的に表してくれているのです。

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