2009年06月10日 (水)視点・論点 「外国人が日本語で小説を書くとき」
東京大学教授 沼野充義
シリン・ネザマフィの文学界新人賞受賞
最近日本の文学界で話題になった作品の一つに、シリン・ネザマフィShirin Nezammafiさんによる「白い紙」という小説があります。『文學界』新人賞の受賞作品ですが、この著者は、一九七九年テヘラン生まれのイラン人女性だといいます。彼女にとって、日本語は当然、母語ではなく、後から習得した言語です。
小説の舞台はイラン=イラク戦争当時のイラン、主人公はテヘランから疎開してきて現地の学校に通う少女です。空爆におびえる戦時下での清らかな恋愛を描いた青春小説で、極限的な状況のもとで一生懸命勉強し、真剣に恋をする若者たちの姿が描かれていて感動的でした。
しかし、この小説には日本はまったく出てきません。それならば、どうしてわざわざ日本語で書く必要があるのだろうか、と疑問に思う人もいるかもしれません。そもそも外国人が日本語で小説を書く、というのは、どういうことなのでしょうか。
中国人として初めて芥川賞を受賞した楊逸
そのことを考えるために、最近話題になっている、もう一人の外国人作家をご紹介したいと思います。昨年、中国人として初めて芥川賞を受賞した楊逸(Yang Yiヤンイー)さんです。
楊逸(ヤンイー)さんは、中国に生まれ育った、中国語を母語とする中国人です。ただし楊逸さんの場合は、日本と中国の両方にまたがって生きている中国人にいつも焦点を当てていて、イランだけを舞台にした作品でデビューしたネザマフィさんの場合とはその点が違っています。例えば、芥川賞を受賞した『時が滲む朝』は、ある中国人男性の中国の地方での大学生活から、天安門事件と民主化運動、逮捕と退学、渡日、日本での生活、といった主人公の経歴を追っていきます。青春と愛と革命を交錯させるこの物語には、現代の日本文学が忘れかけていた懐かしさがあり、私は胸を衝かれました。
ネザマフィさんの日本語も上手ですが、それにもまして、さすがに漢字文化圏の出身である楊逸さんの日本語は立派です。しかし、どちらの日本語にも、日本人が書くものとは違った、少々不自然と思われるところが見られます。
問題は、その「違い」をどう評価するかでしょう。こういう外国人の日本語は「変な日本語」でよくない、と言う人もいるでしょうけれども、私はむしろこれは日本人にとっても、日本語にとっても、健全なことだと考えます。言語は生き物と同じで、多様性の乏しい狭い閉ざされた世界で自己反復を繰り返していくと衰退します。日本人はその長い歴史を通じて、中国や欧米から異質なものを取り入れ、自分のものとしてきました。多様性をもたらす「違うもの」を私たちは恐れる必要はまったくありません。
リービ英雄と「日本語の勝利」
世界に目を向けてみると、言語や文化の境界を超え、執筆を母語から別の言語に切り替えた作家は、20世紀以降、そんなに珍しくはありません。さらに、ロシア出身でアメリカに亡命し、ロシア語と英語の両方で魔法のように精緻な言語芸術を生み出したナボコフを筆頭に、ベケットやクンデラやブロツキーのように、二ヶ国語で創作をしたバイリンガル作家の例もよく知られています。
ところが、日本語は長いこと「日本人だけのもの」と見なされ、ガイジンがいくら流暢に日本語をしゃべっても、文学を日本語で書くことはできまい、といった考え方は根強く残ってきたのではないでしょうか。そういう固定観念に最初に挑戦した一人は、リービ英雄さんです。リービさんは日本語で小説を書く日本の作家で、「英雄」という日本人風の名前をお持ちですが、日系人ではなく、英語を母語とするアメリカ生まれのアメリカ人です。そのリービさんは、「日本語の勝利」というエッセイの中で、日本人として生まれなかったのに日本語で表現する自分のような者が出てきたことこそが「日本語の勝利」なのだと主張しています。
もちろんそうは言っても言語の壁を越えることは簡単ではなく、モンゴル人力士が大相撲の中核を担うように、「非日本人作家」が日本文壇の主流を占める日が近く来るとは思えませんが、それでも現代の日本には、オーストラリア人の小説家・戯曲家のロジャー・パルバース、スイス出身の小説家デヴィッド・ゾペティ、アメリカ出身の詩人アーサー・ビナード、中国出身の詩人、田原(ティアンユアン Tian Yuan)などの注目すべき書き手が少しずつ登場しています。
また身近な例で恐縮ですが、私が中心の一人となって二年前に新しく開設した現代文芸論という大学の研究室では、ウクライナ人やポーランド人や中国人やアメリカ人の留学生が、日本人の学生といっしょに、日本語でよしもとばななや多和田葉子や石川淳の小説について議論し、レポートや学位論文を日本語で書いています。
多和田葉子の「エクソフォニー」--母語の外に出て書くことの意味
作家の多和田葉子さんは、現代の世界において、このように母語以外の言語で書く人たちが決して少なくないという現象に着目し、それを「エクソフォニー」と呼びました。エクソフォニーとは「母語の外に出て書く」といった意味です。多和田さん自身が母語の日本語の他に、ドイツ語でも執筆をするバイリンガル作家で、その創作は国際的に非常に高く評価されています。
では、このように母語以外の言語で行なわれる創作には、いったいどんな意味があるのでしょうか。現代の日本における外国人作家の仕事に限って言うならば、それは第一に、日常の中に埋没しかけた日本語表現に新たな光を当て、日本語の多様性に貢献し、日本語を強く、豊かにすることにつながると思います。
第二に、現代日本の日常の枠の中で忘れられかけた、「大きな物語」とでも呼ぶべきものが日本語の外からもたらされ、それが現代日本文学に対する強い刺激になる可能性があります。外国人作家の出現を通じて問われているのは、じつは、それぞれの作家の日本語がうまいか、下手か、といった問題をはるかに超えたことではないでしょうか。
では、いま問われているのは何か? それは、日本語で日本の外の世界を描くことができるのか、私たちは日本語によって日本の外に広がる世界の姿を生き生きと捉えることができるのか、ということではないか、と私は思います。
日本文学の国際化というと、私たちは大江健三郎がノーベル文学賞を受けて世界的に高く評価されているとか、村上春樹が翻訳を通じて世界中で広く読まれている、といった現象に、つまり<日本の中から日本の外へ>という方向に視線を向けがちです。しかし、その一方で、今日お話したように、外国人が日本語で書くことによって日本語文学を豊かにする、つまり<日本の外から日本の中へ>というプロセスも進行しているわけで、私たちはその両方に目を向けたとき、初めて日本文学の国際化について語れるのだと思います。
投稿者:管理人 | 投稿時間:23:16
