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視点・論点 「ベトナム戦争終結から40年」

写真家 大石芳野
 
ベトナム戦争が終結したのは1975年4月30日ですから、丁度40年前になります。今日は私が撮影した写真を交えながらあの戦争がベトナムの人たちに今なお、どんな影響をもたらしているのかなどをお話ししたいと思います。

その前に、私たちがベトナム戦争と呼ぶこの呼称ですが、戦場はベトナムだけではなくカンボジアやラオスにも拡大しました。要はフランス領インドシナの全面的な戦争でした。フランスからの独立を目指したのが第一次インドシナ戦争で、1954年にフランスの敗退で終結しました。
1960年からアメリカとの戦争になり、第二次インドシナ戦争と呼びます。
この戦争をベトナムの人たちは「アメリカと戦った戦争」と言います。そしてアメリカもまた敗退しました。
この15年間の戦争における南北合わせたベトナム人の死者は民間人も含めて約200万人で、行方不明者も多く、アメリカ軍関係者は約5万人とそれぞれ推定されています。

戦後、私が初めて訪れた1980年ころには、フランスと戦った生存者もおられて少しだけながら当時の話も聞くことができました。
中でも印象深かったのは年老いた女性たちです。
夫をフランス軍、息子をアメリカ軍との戦争で失った女性が多く、長い戦争の時代に家族が翻弄され、愛しい人と引き裂かれた、その一人一人の人生に暗澹となります。
 
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アメリカ軍との戦争では夫も息子も失ったという女性がさらにもっと多いのです。この女性もそうした苦境の中で凛として生きてきました。
 
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こちらの二人は母と娘です。母は夫と3人の息子を戦闘で亡くし、遺志を継いだ娘も兵士となりましたが右足を失ってしまいました。
こうした人びとは戦後もベトナム全土に数えきれないほどいます。偶然に行き会った人に声を掛けて戦時中の事や家族のことを尋ねもしましたが、様々な苦難の体験や経験が語られるといった状況はそこここに残っていました。

今や、戦争終結から40年ですからベトナムでも風化は免れないのですが、それでも40年間の中で復興が見られるようになったのは、15年間くらい経った後からだと言えます。
それまでは厳しい世界情勢の中で人びとは時代に翻弄されていました。戦争が終わった3年後の1978年に、ポル・ポト政権との交戦が元で、ベトナム軍がカンボジアに侵攻し、それを否とする中国軍の「懲罰」という名による攻撃を受けて、ベトナム北部一帯が戦場となりました。
 
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日本は貿易を凍結するなどの処罰を行い、中国に準じました。こうした国際的な非難の余波が続いたことで復興は後退せざるを得なくなり、人びとは厳しい生活を余儀なくされました。
1990年を過ぎたころから、ようやく刷新政策に兆しが見られるようになり人びとは経済的な復興、生活の向上、文化や芸術的な解放を願って走り出しました。けれど、言論の自由にはまだ厳しいものがあります。
 
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街は急速に近代化し、暗かった通りにも灯りやネオンが点るようになり、新築が増え、女性のハイヒール姿が目を引くようになりました。笑顔で溢れ、あの長く厳しい戦争がどこにあったのかという程の発展です。夜のサイゴン川やクーロン川の水面には街灯の灯りが映り込んで近代化を象徴しています。けれど渡った先の農村には、戦争の傷が実に深く刻まれているのです。

市街地から離れた農村地帯の多くがかつて激しい戦場でした。それだけに被害は色濃く残っています。その一つが化学兵器の弊害で、代表的なものが枯葉剤・ダイオキシンです。北緯17度線から以南をアメリカ軍は10年間にも及んで枯葉剤を散布し、大地も人びとも多大な犠牲を伴うことになりました。
元来は農薬です。猛毒であるばかりか遺伝子をも破壊する性質を持っているため、当人は癌などになり、子どもたちは先天的な障害を背負わされました。
その枯葉剤を化学兵器として使用し続けたために、人間も自然も野生動物も大打撃をこうむりました。
 
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中でもエージェント・オレンジと命名された枯葉剤・ダイオキシンはかなりの悪性で、もはや、4世代にもわたる人々が苦しんでいますし、元アメリカ兵にもその影響は現れています。彼らはアメリカの製薬会社に補償されましたが、ベトナムの被災者は何の補償もなく無視されたままです。
こうした人びとが枯葉剤を散布された農村に少なくありません。

戦争の被害者を絵にかいたような家族に会いました。
 
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右の男性は戦闘で失った足に、手作りのブリキの義足を付け、左端の娘の夫は枯葉剤によって生まれながらに障害を持ち、息子のトゥイくんは背骨が歪んでいます。トゥーさんは1973年、戦争の最中に生まれました。父親はアメリカ軍側の兵士として徴兵されて森で戦い、枯葉剤ダイオキシンを浴びて体調を崩しました。
 
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ヒエンさんは6人の子どもを身ごもりましたが、この赤ちゃんのような状態で4人が亡くなりました。第一子は夫が南に行く前に生まれて健常児だと話していましたが、抱いているわが子を示して「この子は生きられるでしょうか」と私の顔を凝視しながら悲痛な表情で訴えていました。
北部には一滴も散布されませんでしたが、南へ赴いて戻った兵士たちから障害をもった子どもたちがいまだに生まれています。戦時中ばかりか戦後も、長年にわたって枯葉剤は人畜無害だとの主張が続いていました。
ベトナム戦争はアメリカが太平洋を越えて共産主義の拡大をベトナムで防ぐというドミノ理論を中心に掲げて侵攻した戦争でしたから、戦後もアメリカに不利になる枯葉剤の真実は、日本でも長らく否定されました。現在では周知の事実ですが、枯葉剤ダイオキシンの被災者たちはいまも苦しみの渦にあります。

ベトナム戦争から40年、ベトナムは、前向きに進んでいます。経済的にも、観光や文化なども向上し、子どもたちの笑顔からも未来への希望を確実に感じます。日本へ留学する人も増えて交流は深まっています。
 
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ベトナム人のことを「東南アジアの日本人」とたとえますが、昨今の日本人のように「長いものに巻かれる」ようにはならないで欲しいと密かに願っているのですが、言い過ぎでしょうか。戦争の傷はなかなか癒えません。日本の戦後70年でも、まだ戦争は影を落としていますから、40年のベトナムではさぞかしでしょう。戦争が残した傷の深さに改めて多くを考えさせられます。

遠いベトナムの過去の戦争だと片付けるのではなく、私たち一人一人のこととして見つめ直しながら、平和につなげたいとつくづく思っています。そうでなければ戦争の多大な犠牲者は浮かばれませんから。
 

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