NHK 解説委員室

解説アーカイブス これまでの解説記事

視点・論点 「天災の日本史」

静岡文化芸術大学教授 磯田道史
 
東日本大震災以後、地震や津波の被害を防ぐことが課題になっています。歴史学が思いのほか、こうした防災に役立つことも知られてきました。また日本列島は地震列島、数々の災害にあってきました。災害がキッカケになって世の中が変わる、歴史が動いてきたこともわかってきました。私も3年ほど歴史と災害について研究をして本にまとめたので、今日は日本史の中で地震や災害が歴史を大きく動かした事例をお話したいと思います。

「天正地震」という地震と秀吉のことを話してみたいと思います。実は秀吉は2つの大地震を自分の味方にできませんでした。それでこの地震を上手く自分の政治に使うことができた徳川家康のほうに天下が転がり込んだという話もあります。江戸幕府は、実は2つの地震というものが関係して出来上がっているという風に私は思うようになりました。
その地震とは1586年、旧暦の11月29日に起きた「天正地震」という地震です。秀吉と家康の2度目の直接対決の直前に起きたわけですね。第1回目は皆さん、ご承知の家康と秀吉が戦った「小牧・長久手の戦い」でした。「小牧・長久手の戦い」のあと秀吉はもう1回、家康をやっつけられなかったので襲っていくんです。これから10万の軍勢で家康を責め潰そうといって、大垣などに前線基地を作って兵糧も入れていました。翌正月の15日には家康討伐の大軍を発するぞという風に秀吉は公にしてたんですね。

ところがその直前の11月の29日に、北陸から濃尾地方と滋賀県、三重県北部などを襲った大地震が起きるわけです。この地震でなんと秀吉の前線基地は壊滅するんですね。動員される領主達の村々も大きな被害を受けて、ところが家康の側は浜松、岡崎といったお城は石垣の一部が壊れた程度で無傷に近かった。そうなりますと10万の秀吉軍が攻めてくる、それに家康は3万から4万の人数で対抗せざるを得なくて絶体絶命であったのに、平和交渉の余地が生まれたんですね。
実際、秀吉は折れまして、家康の攻撃を諦めて、自分の母親と妹を家康に人質に入れて、その代わりに家康が京都へ上洛して秀吉の家来になるという交渉がまとまったわけです。地震がなければ秀吉は家康との戦争を強行して、さすがに家康も3倍の敵を何度も倒すことはできなかったと思うんですね。ですから家康が負けて死んでしまうか、もしくはギリギリのところで講和交渉をやって小さな大名に落ちていたに違いないんですね。そうでなかった可能性も考えられますけど、まずそうだったと思います。
そうすると小大名になるか家康自身が死んだ徳川の幕府っていうのは、できなかった可能性もある。そういう自分がやられる直前に地震で相手の側の基地が崩壊するということで、家康は非常に強運の持ち主で、地震を味方につけることができたと言えるかもしれません。
そしてその10年後、またまた秀吉は「慶長伏見地震」というので自分の政治をダメにしてしまいます。秀吉はその時、伏見城にいました。城が倒壊して命からがら逃げました。子供を抱いて逃げる。当時の秀吉は朝鮮を攻めて、明と朝鮮と戦っていまして、明からの交渉の使節がちょうどこの地震で倒壊してしまった伏見城にやってくる直前だったわけですね。
そこで秀吉は明の使節に見せつけるつもりであった豪華な伏見城が倒壊した上に、接待で、こんなに日本には美女がいるぞという風に集めていた美女達が建物の下敷きになって死ぬという悲惨なことになりました。ここで秀吉の家来や大名達は朝鮮との戦争をやめる方向に秀吉は動くだろうと当然思ったわけですね。ところが秀吉は戦争を続行する、みんな疲弊しているのに、伏見城ももっと豪華に地盤が固い隣の山の上に建て直すと言い出したわけですね。
「太閤はキツネかタヌキが取り憑いたとみえる」という風に、親戚の浅野家というのがありますが、そこの当主まで言い出す始末ですね。このあたりから豊臣政権の求心力が急速に低下していきます。で、家康に結局政権を奪われることになったわけですね。地震で対応を誤って人気を失った、外国攻めるぞといって人気を失った豊臣政権の隙を突く形で家康がどんどん楔を打っていくことがありました。

実は幕末にも災害の影響が非常に大きな影を及ぼしているわけですね。影も光も及ぼしている。幕末に最強の兵器を持った藩は佐賀藩でした。なんでこの佐賀藩がこんな強い藩になったのか、佐賀藩といえば日本の西洋化を大きく進めた「小さな工場」と言っていいような藩です。巨大な台風が実は佐賀藩を変えて、維新の時代変化に影響したんですね。
この佐賀藩も借金漬けになっていたんです。ところが1828年に「子年の大風」という高潮を伴う超巨大台風がこの佐賀藩を襲うんですね。なんと台風による高潮で有明海の海面が酷いところでは5メートルを超えて上昇したわけです。佐賀平野の低地に海水が津波のように流れ込んで人々が溺れまして、佐賀藩では藩人口の3%近くが死んだとされます。山のほうに住んでいた人もいたはずですから、3%近くがっていうことは低地にいた人達がどのぐらいの頻度で死んだかっていうのは考えるも恐ろしいほどです。
それで佐賀藩は時の藩主も引退して若い鍋島斉正という藩主がたちまして、新しく新規巻き返しの藩政の改革を始めます。この斉正っていうのは面白い人ですね、藩の学校で人材を育成して、藩主自らが長崎へ行って西洋帆船に乗ってみて、「西洋の技術は重要だ、知識も重要だ」と言って、新しい国づくりを始めたわけです。で、佐賀藩というのはミニ西洋・工業国家になりまして、反射炉という溶鉱炉、鉄を作るところもすぐにできますし、中に螺旋を切った最新式の大砲なんかも持つようになるわけですね。
この佐賀藩の兵器、アームストロング砲をはじめ極めて強力な兵器があるものですから、戊辰戦争も戦線が膠着しているところを佐賀藩の兵器で突破するっていうことがあって、決着がつきやすかったと言っていい。で、薩摩、長州、土佐に肥前藩、佐賀が加わるという展開になったわけです。

まとめてみますと、やはり近代以前というのは基本農業社会なんですね。人間は自然の力にまだ無力です。ですから災害の影響が本当に決定的な影響を及ぼす場合があります。ですから日本史の重要場面も、これまでに考えられていた以上に天災が影響して歴史が動いているかもしれません。その歴史上の事件を見る時にもですね、その背景に天災などの自然の影響があると。だから人間界の分析だけでなくて、やはりこの3.11以後の歴史学は謙虚に自然災害とか自然のほうから考えていくと、やっぱり新しい歴史を動かした原因が見えてくるんではないでしょうか。
天災や災害が日本史を作ってきた面があります。ここで教訓になると思うんですよね、豊臣氏のように天災をキッカケに滅びに向かった歴史もあればですね、家康や佐賀藩のように天災という災いを転じてですね、良い方向に向かった歴史もあります。今の日本は果たして天災をどういう風に転じることができるのでしょうか。歴史に学べることは、まだまだたくさんありそうです。

キーワード

関連記事