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広島大学教授 中園和仁
 
9月28日に、学生が香港の中心街にある幹線道路を占拠してから、警察とのにらみ合いが1ヵ月以上も続いています。10月21日には、政府と学生との初の対話も実現しましたが、物別れに終わり、現在も膠着状態が続いています。
 それでは、この「雨傘革命」と呼ばれる民主化運動で、なぜ学生たちは政府に対する異議申し立てを行っているのでしょうか。

両者の争点は、中央政府である中国政府が、香港特別行政区の香港に認めた普通選挙の実施方法をめぐるものです。
8月31日に、中国の全国人民代表大会常務委員会は、行政長官の普通選挙に関する決定草案を可決しました。
 
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それによると、わずか2,3人しか立候補できず、しかも1200名の「指名委員会」の過半数の承認が必要になり、親中派が多数を占める「指名委員会」が、民主派を候補者に選ぶ可能性はゼロに近いと言えます。
特定の勢力の排除を狙って、候補者を制限するというのは、とても普通選挙とは言えません。そこで、抗議行動として、民主派は学生が中心となって「セントラル占拠行動」を実行することに決めました。
10月21日になって、ようやく政府と学生との対話が実現しましたが、双方の主張は物別れに終わりました。
 
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学生団体は、「大財閥やビジネスマンが『指名委員会』の大部分を占め、約100万人に上る貧困層の声は反映されない」と主張し、業界団体ごとに指名委員を選ぶ従来の方式を見直し、民意を反映した仕組みに変えるべきだと主張しました。そして、有権者の1%以上の署名を集めれば、だれでも立候補できる「有権者指名」の導入を求めました。

これに対し、梁振英行政長官は、欧米メディアとのインタビューで、「この制度を導入すれば、月収1800米ドル(約20万円)以下の低中所得者層が選挙を主導することになる」と発言し、物議を醸しました。
この発言には、2007年の行政長官選挙で、なぜ中国政府が候補者を制限しようとしているのか、その意図が端的に表れています。

かつて、中国政府は香港を回収するにあたり、共産党政権への恐怖心を取り除くために、「京人治港」、すなわち北京政府が香港を治めるのではなく、「港人治港」、香港の人々が香港を治めることを約束しました。
 
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1989年の「天安門事件」の後、アメリカに亡命した新華社香港支社長、許家屯によると、当時の最高指導者、鄧小平が再三にわたって述べてきたのは、「『港人治港』とは、資本主義制度を変えないという前提の下での『港人治港』であり、労働者階級ではなく、資産階級を中心とした政権下での『港人治港』である」というものです。
つまり、中国の言う「港人治港」とは、実際には「商人治港」、すなわち、財閥、ビジネス・エリートが中心となって、香港を治めるということでした。

また、「開明的独裁者」とも呼ばれるシンガポールのリー・クァンユー元首相は、最後の総督、クリス・パッテンが導入した「民主改革」を痛烈に批判して、「香港の過去の発展は政治ではなく、ビジネスに重点が置かれていたからであり、市民が政治に関与しなければ、シンガポールのような高度の発展を遂げることができる」と述べています。
事実、イギリス統治下の香港においても、香港の民主化要求に反対し、それを抑え続けてきたのは、香港の財閥、ビジネス・エリートであり、そして中国政府でした。1970年代以降、香港総督は外務省の出身者で占められて来ましたが、彼らは基本的に財閥や中国政府の意向に沿って、香港の統治を行ってきました。
 
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その典型的な人物がディビッド・ウィルソン総督と言っていいでしょう。返還までの過渡期にあった1987年に、彼は「香港の人々は普通選挙を求めてはいない」と断定し、立法評議会への普通選挙導入を拒否しました。これは立法・行政両評議会議員に任命されたビジネス・エリート、および中国の利益と完全に合致していました。
しかし、このような融和的な姿勢は、89年に北京で起きた「天安門事件」に対する香港市民の「百万人抗議デモ」によって、変更を余儀なくされます。立法評議会への普通選挙導入の要求を抑えられなくなり、その結果、1991年に、一部とは言え、初めて香港で普通選挙が実施されることになったのです。
 
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そして、ウィルソン総督に代わって、総督となったのが政治家、クリス・パッテンでした。
彼は前任者とは対照的に、中国の意向を無視して「民主化」を拡大しました。しかし、最終的には、立法評議会の財界代表議員などの反対に会い、そして、何よりも中国政府の怒りを買ったために、パッテンの「民主改革」は葬り去られてしまいました。
その結果、植民地時代から続いてきた香港政府と財閥、ビジネス・エリートとの緊密な連携による統治、「商人治港」は、返還後も現在に至るまで受け継がれているのです。

次に、今回の民主化運動を学生が主導する形になったのは、どうしてなのか考えてみたいと思います。
今年3月に、中国と台湾との間の「貿易サービス協定」に反対して、台湾の立法院を占拠した「ひまわり運動」は記憶に新しいですが、この運動は、協定の発効により、中国の台湾に対する政治的影響が強まり、中台統一に向けた動きが加速することを警戒した運動でした。
学生たちの多くが自らを「台湾人」と呼び、自らの帰属意識は中国にはないことを示しました。運動は立法院の占拠という過激なものだったにもかかわらず、最終的には政府側の譲歩を引き出すことに成功しました。今回の香港の学生による民主化運動は、台湾の「ひまわり運動」に大きな影響を受けたものと思われます。

台湾と香港における、この二つの学生運動は、「巨大化する中国」の影響力増大に対する懸念を共有しているのです。今回、民主化運動を主導している学生たちの多くが、台湾の学生が自らを「台湾人」と呼んだのと同じように、「香港人」であると称しています。
返還後、初代行政長官となった董建華は、本土中国への帰属意識を持たせる目的で、「愛国主義」教育を開始しました。国慶節や、祖国復帰記念日などの祝日には、国旗を掲揚するよう指導してきましたし、2003年には、中国初の宇宙飛行士を香港に迎え、「愛国主義」を鼓舞しました。
しかし、「愛国主義」教育の押し付けは、結局、市民の反発を招き、逆に「香港人」意識を高揚させることになりました。この「香港人」意識は、イギリス統治時代に、西欧的な自由・人権・民主という普遍的な価値を学ぶ過程で、形成されたもので、今回「雨傘革命」を主導している学生たちは、この西欧的価値観を身に着けており、上の世代より、さらに民主主義の大切さを理解しているのです。
しかし、国内にも分離・独立の動きを抱える中国にとって、そう簡単に香港の学生の要求を受け入れることはできません。それは、領土保全、国家統一の問題であり、共産党支配体制を揺るがしかねない問題でもあるからです。
道路封鎖が続くことによって、経済が麻痺し、市民の理解が得られなくなれば、一時的には、学生は撤退を余儀なくされるでしょう。しかし、今回、火が付いた学生による民主化運動は、今後ますます活発化することが予想されます。

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