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上野動物園園長 土居利光
 
日本に初めてジャイアントパンダ来たのは、1972年(昭和47年)の10月28日のことです。
雄のカンカンと雌のランランの名は一躍有名になり、当時の新聞には、「2時間並んで見物50秒」とか「並んだ二時間半」など11月5日の一般公開日の見物の長い列を伝えた見出しが並びました。漫画「サザエさん」にも、産直野菜を買うために家の前に並んでいた行列をタラちゃんとワカメちゃんに見せて、こんなに長いパンダの行列だから諦めるようにとサザエさんが言い聞かす場面が描かれています。こうしたパンダ人気には伏線がありました。

最初は、1966年および1968年から1969年にかけて行われたロンドン動物園の雌パンダのチチとモスクワ動物園の雄アンアンの見合いでした。
当時はソビエト連邦を中心とする東側とアメリカ合衆国を中心とする西側とが対立したいわゆる東西冷戦下にあったため、この試みは政治的な風刺の対象にもされます。結局、見合いはうまくいかなかったものの、関係国などでパンダが大きく着目されることになりました。日本では、このことがニュースとして取り上げられることは少なく、一般的な注目を集めるまでにはいたらなかったのですが、出版などの分野において、パンダのかわいらしさに焦点を当てた動きがでてきました。その代表が1970年に創刊された女性雑誌アンアンで、雑誌名はもとより、マスコットキャラクターにもパンダが採用されました。

その後いわゆるパンダブームを起こしたのは、昭和天皇のヨーロッパ7カ国の歴訪でした。
1971年9月27日から10月14日まで、在位中の天皇として歴史上はじめて海外を訪れ、ロンドン動物園ではチチを見学し、新聞にはチチがチョコレートを食べることなどが紹介されました。
これ以来、デパートにおけるクリスマス商戦を始めとしてパンダのぬいぐるみが町中にあふれるようになったといわれています。さらに、1972年2月にはアメリカ合衆国大統領として初めてニクソン大統領が中国を訪問した際にも、パンダが贈られたことがニュースとなっています。
これらのニュースでは、中国のパンダあるいは生き物としてのパンダについてはほとんど紹介されていません。一方、動物園関係者など動物に関心を持つ人々の間では、1961年頃からパンダが紹介され始め、パンダは、世界の中で局限された場所に生息し、個体数も少なく、発見の経緯も面白い、いわゆる珍獣として着目されるようになっていました。

この時期には、パンダが愛らしさを持つとともに貴重な動物であるという認識が醸成され、実際に見てみたいという期待感が社会的に強まっていきました。
こうした中、当時の田中角栄首相が、財界や世論の強い期待に押される形で日中国交回復を決断します。1972年9月29日、田中首相と中国の周恩来首相が国交を回復するための共同声明に調印しました。
調印式後の記者会見で二階堂内閣官房長官により中国から日本に雌雄のパンダが贈られることが発表されました。新聞には「パンダ夫妻どうぞ:中国が心温まる贈り物」とか「パンダ夫妻プレゼント:ひと足早く動物大使」などの見出しが出されました。「日中友好のシンボル」あるいは「日中国交正常化の象徴」と言われるように、パンダは国交回復に伴うプラスのイメージとともに国交回復が一般の人の目に見える具体的な事例となったのです。

この時は、パンダの帰属を巡って多くの動物園が名乗りを挙げました。最終的には上野動物園に落ち着いたものの、候補地となった動物園がある地域では、住民が日本にパンダの来ることが自分たちと関係があるのだと考えるきっかけとなったばかりではなく、パンダという題材には地域という枠組みがあることが暗黙のうちに認識されることにもなりました。
今上陛下が皇太子だった時のご成婚が1959年、1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万国博覧会と国家的なイベントがあり、それとともに暮らしが豊かになっていくことが実感された時期です。パンダを見るための行列は、日常生活を離れて動物園に行くという楽しいイメージとともに、そうした時代に参加しているのだというプラスの思い出と結びついていきます。
出来事が思い出になるためには、ある事柄に対する個人的な愛着がベースあり、それが社会的にも共通の暗黙の主題となっていることが必要です。そして、思い出が存続できる時間の長さは限られています。
カンカン、ランランの来日は、それが社会的な話題となり、全体の記憶として保持されている時間において、思い出となります。上野動物園では、現在まで合計で11頭のパンダを飼育してきました。こうした中で、カンカンとランランの二世誕生への期待、ランランの急死とランランの代役であるホァンホァンの日本への贈呈、カンカンの死亡と日中国交正常化10周年を記念したフェイフェイの贈呈、また1986年のトントンの誕生の際には名前の募集に27万5000通の応募があるなど大きな話題となりました。
 
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それぞれのパンダたちが置かれている状況は異なっています。しかし、何か新しいことがおきるたびに、過去も紹介され、それらを含めて新たな思い出をつくるようになります。
モリス・アルヴァックスは、同一集団の成員が一定の関係を保ちながら一緒に考えるようになった時から、人は集団と一体化し、過去を集団の過去と混同し続けることができるといっています。
パンダの出来事は物語を作りながら日本人の集合的記憶になったということができるでしょう。

また、出来事を呼び起こすことには場所が不可欠です。見たことがない場所であっても、人が場所のことを知っていると思うのは、その場所が実際に存在して、見ようと思えば見ることができるとともに、あるということが他の人によって確かめられていることによってです。
上野動物園に来たことがない人でも、上野でパンダを見たという人がいれば、関連する会話がなりたつことになります。ここでは、上野と上野動物園は同じ意味を持つようになっています。
2008年にリンリンが死亡し、上野動物園にパンダがいなくなりました。入園者数の減少に対する危機感を持ったのは動物園だけはありませんでした。商店街などへのお客さんが目に見えて減ってしまったことなどから、パンダ導入に向けて、上野観光連盟は主体的な動きをみせました。
しかし、これは経済的な効果のみを考えていた訳ではありません。上野観光連盟などに加盟する企業など約600社に対するアンケートによれば、パンダの経済効果について7割近くが「ある」と答えています。その反面、「会社にとってのパンダの意義」については、「上野のイメージ」と答えたのが6割程度となっているように、利益を生み出すものというよりは、上野の地域に不可欠なものと捉える傾向が読み取れます。

上野動物園あるいは上野のパンダの人気は、日本社会において良いイメージを持つ集合的記憶として誕生し、パンダの個体そのものは変わっても時々に話題を作りながら一つの物語をつくってきたこと、さらに動物園だけに留まらず地域と密接に結びついたことによって、結果として良いイメージの集合的記憶を持続できたことにあると思います。

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