砂防・地すべり技術センター研究顧問 池谷 浩
 
 昨年3月11日東北地方を巨大な津波が襲いました。岩手県陸前高田市の名勝「高田松原」の約7万本におよぶ松も津波になぎ倒されてしまいました。しかし、1本の松だけが奇跡的にも津波に耐えて残ったのです。
 復興のシンボルになってほしいとの地元の皆さんの願いも虚しく、この1本の松も昨年末に枯死状態となってしまいました。しかし、皆さんの熱い思いは接ぎ木や種子から後継樹の苗の育成を成功させ、次世代へと引き継がれることとなりました。きっと1本松の子孫が災害復興のシンボルとなる日が来ることと思います。  

 松は海岸や島、山の尾根、崩壊地など水分条件が悪いところや土壌層が薄く栄養分が少ない、いわゆる木の成長にとって悪条件のところでも生育する木です。そして、一年中緑を保っていることから長寿の木、繁栄するめでたい木として千代木とか常磐草などとも呼ばれている木でもあります。正月には松飾りとして飾られるなど松は我々の生活に古い時代から関係してきた、日本人に最も身近な木の代表とも言えるでしょう。
 さて、その松にも色々な松がありますが、特に松の葉が2本一緒についているマツ科マツ属の二葉松である赤松や黒松が防災という点からも我々日本人にとって、とても役立っている木であることはあまり知られていません。
 歴史的にみて松が防災面、特に土砂災害対策として活用されるのは江戸時代に入ってからです。もちろん、山から流れ出る水と土砂を安定的にするための対策は古くからありました。山に木がないと大雨の時には水と土砂が流れ出し、普段は水のない川ができます。そこで平安時代初期の821年、太政官符により河辺の山の木を切ってはならないと定めたのです。しかし、この時の山の木が松かどうかは定かではありません。むしろ当時の状況から判断すると松ではない可能性が高いと思われます。
 我が国は古くから生活用品や燃料に木を使い、家屋や橋梁などの構造物に木を使ってきた「木の文化」の国であります。日本書記にはスサノオノミコトが「杉と楠は舟に、檜は宮殿の材に、槙は棺に使え」と言ったと伝えられています。まさに適材適所、さまざまな木を活用していたのですが、その中に松は入っていません。3世紀の日本の状況を記述した「魏志倭人伝」にも楠、樫など九種の木の名が挙げられていますが松は出てきません。松が書物によく出てくるのは、8世紀に入ってからです。これには5世紀から7世紀にかけて朝鮮半島から日本にやってきた人々が関係していて、須恵器や鉄器などを作る際の燃料として赤松を使い、松を全国的に広めていったと私は考えています。
ですから風土記や万葉集には松が数多く登場しますが、この時代の松は防災目的の木ではなかったのです。
日本のような木の文化の国では、人口の増加や生活様式の多様化とともに樹木の使用量が増加します。特に江戸時代に入ると、一般の家庭でも夜なべ仕事のための明かりとして松の根が使われ、そのための松の根掘りが各地で盛んになりました。
このような里山での過度な樹木伐採や木の根掘は山を荒らし、雨のたびに土砂を下流に流出させ、土砂災害が発生しました。江戸時代には周辺の地盤より河床の方が高い天井川が各地で形成されていきますが、これも山地からの土砂の流出が多いことを示しています。事実「日本砂防史」によると、記録として残されているものだけでも1574年~1867年の294年間に土砂災害は全国で241回数えられています。つまりほぼ毎年1回、全国どこかで記録に残るような土砂災害が発生していることになるのです。土砂災害が顕在化してくると、各地で防災対策が求められるようになります。その対策として山の木の伐採を禁止したり、河床に堆積した土砂を取り除く川ざらいなどが行われました。
しかし、これらの対策だけでは災害防止の実効が上がらず、より抜本的な対策が要求されていくようになります。そして土砂災害対策が明文化されていくのです。
例えば1660年には幕府が山城・大和・伊賀の諸国に対し、荒廃地への苗木植樹を命じています。そしてこの時の植樹に使われた木は松と考えられます。例えば飛松留という工法があります。これは山の斜面に穴を掘り松を植えるという工法です。このように江戸時代になると荒廃地からの土砂流出を防ぎ災害を防ぐ木として松が活用されていったのです。
 1666年に砂防の法律とも言える諸国山川掟が出されます。この山川掟は3ヵ条からなります。その3ヵ条とは、
 1.草木の根を掘ることを禁ずる。
 2.河川上流の木のない山には苗木を植え、土砂が流れ出ないようにする。
 3.河原に新たに田畑を作るなどして、川を圧迫しないようにする。
という内容であります。
 この掟が出され、山は安定したのでしょうか。実はそうではなかったらしいのです。その証拠として熊沢蕃山の著書によれば、「山川の掟が出来たけれど山はますます荒れ、川はいよいよ浅くなるのは何ぞや」という弟子の質問に、蕃山は「山の木を切ったり根を掘ったりすることはいけないと言われても、3日分の食糧さえない人々は、山から木を盗んできて生活している。庄屋や年寄も実情を知っているので見逃す他はない。」と答えているのです。
 もともと山川掟の令は、根の掘り取りという住民の行為を禁止し、また植物を用いた防災対策を実行させる目的で出されました。
 しかし、実際には住民の行為の禁止には限界がありました。また植物を用いた工法が効果を発揮するには、樹がある大きさになり、根が張り樹冠が充分地表面を被うことが必要ですが、たとえ松であってもそれには時間がかかります。そのためすぐには掟の効果が現れなかったのでしょう。
 山川掟の発布後も度重なる災害に手を焼いた幕府は、1684年に再び山川掟を発布することになるのです。
 18世紀に入ると、山の斜面に木を植える工法の他にも石垣留や鎧留などの、石や松の木を使った構造物が施工されました。明治時代になると、砂防法が制定され近代砂防が実施されますが、この時代に山の斜面を階段状に整地して、その上に松やヤシャブシを植える砂防山腹工が施工されました。そしてこの松が根付き地盤を安定させて、水分や養分条件を良くすることにより、その土地に合った樹種へと植生が遷移していったのです。
 現在では緑豊かな国日本も、過去のある時期、主に西日本に多くの荒廃地が存在していました。その荒廃地では松を主とする樹木によって緑の復元がなされ、土砂の流出防止がなされたのです。この他、松は全国的にも防風林や海岸での防砂林などとして防災の役割を果たしています。
 松は防災の木であるとともに緑を復元するという環境の木でもあります。緑が復元した今日、松の出番は少ないかもしれませんが、日本人の心の木として、いつまでも我々と一緒にいてほしいものだと考えています。