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視点・論点 「思想としての"メタボリズム"」2011年11月03日 (木)
芝浦工業大学教授 八束はじめ
「メタボリズム」についてお話したいと思います。「メタボリズム」は新陳代謝を意味しますが、今日申し上げたいのは、我々のお腹ではなくて、建築や都市に関する「メタボリズム」のことです。
20世紀は人口増加と都市化が急激に推進された時代でした。二度に渡る世界大戦はこれと深い関連があります。日本は、大陸に増大する人口を養うための「生活空間」を求めて不幸な侵略戦争を行ない、挫折しました。しかしこの根本的問題は解決した訳ではなく、戦災の復興と同時に、都市への人口集中はますます逼迫していきます。全人口も、20世紀の始めに4千数百万、終わりで1億2千万数百万と増えています。同じ戦渦に晒されたヨーロッパ諸国の比ではありません。しかも、新しい都市や国土を造るための新しい技術の開発と同時に、敗戦で傷ついた民族の文化的アイデンティティの回復も求められました。
日本の現代建築は今では世界的に高い評価を得ていますが、それはこのような背景のもとで展開されてきたのです。典型的な存在は日本が生んだ最初の世界的建築家であった丹下健三で、丹下は、個人的な因縁もあった広島の街の戦災復興の計画とその中心をなす平和記念公園の設計を行ないました。これを美学的に優れた建築物としてだけではなく、都市の造営の核として位置づけた所に丹下の慧眼があります。
「メタボリズム」は、1960年に東京で開かれた世界デザイン会議をきっかけに、丹下の直接間接の影響下にあった若い建築家たちを中心に結成された前衛デザイナー・グループの名称です。この会議には世界中の様々なジャンルのデザイナーたちが招聘されましたが、メタボリズムも、インダストリアル・デザインやグラフィック・デザインを含む横断的な運動でした。個人的な制作行為であるアートと違って、デザインは、社会や産業引いては政治的な状況との関わりなしでは推進されません。デザイン会議や「メタボリズム」グループの結成は、デザインをめぐる環境自体の変革の試みでもありました。
60年代の日本は、人口の爆発に合わせて経済も奇跡的な高度成長をしていきました。60年の暮れに閣議決定された所得倍増計画がその始まりですが、この決定の数日後、61年元旦のNHKの番組で、丹下健三は「東京計画1960」と題する東京湾上の新しい都市の構想を発表します。この前後にはメタボリストたちも、菊竹清訓(きよのり)の塔状都市や海上都市、黒川紀章のヘリックス、大高正人と槇文彦による新宿副都心計画、またメンバーではありませんが磯崎新の渋谷、新宿、丸の内などの空中都市計画などと多くの都市計画を発表しています。これらはいずれも海上あるいは空中に人工地盤やそれを支える巨大構造物を構築しようとするもので、敗戦で挫折した対外侵出を技術的な提案で置き換える構想でした。メガストラクチャーと呼ばれたこれらの巨大構造物はメタボリズムの代名詞となりましたが、その一方で、社会の急激な変遷に対応しながら新陳代謝する部分もつくっていかなくてはなりません。カプセル、あるいはムーブネットと呼ばれたプレファブの単位空間を長期的な寿命を有するメガストラクチャーに取り付けることでダイナミックな都市全体像を構想したのがメタボリズムの特徴です。カプセル建築として広くメタボリズムのイメージを浸透させたのが、黒川紀章の中銀カプセルタワーでした。
同じ時期には西欧でも類似した提案がありますが、日本のプロジェクトでは、カプセルは後のシステム・キッチンやバスユニットとして発展していきますし、メガストラクチャーも、単なるイメージではなく、現実の技術的、社会的背景に即して研究されたことに特徴があり、未来派的な装いはその一面に過ぎません。メンバー中最も現実主義的だった大高正人による人工土地の構想は四国の坂出に小規模な形で実現されますが、大高らは後にこのアイデアを普及させていくための法律的な整備まで提案しています。都市全体の提案が実際に建設されることは殆どなかったものの、メタボリストたちは60年代に高度成長の波に乗って数多くの建築作品を実現しています。これらの建築にも都市的なイメージや方法が組み込まれ、この時代が何よりも都市の時代であったことを裏書きしています。菊竹のホテル東光園や磯崎の大分県立図書館などはその例です。一見メタボリスト的な装いでない槇文彦の代官山ヒルサイドテラスですら、ゴルジ体と命名された前衛的な原理を低密度環境に応用したものです。一方栄久庵憲司が率いるGKは、醤油さしから新幹線の車両までの広範な生活環境に新しいイメージを与えていきました。
丹下やメタボリストたちはやがて都市を超えた地域や国土の構想にも進出していきますが、スケールが広がるほど、建築や都市計画など単独の職能ではカバーしきれません。60年代は、経済や社会学、社会工学、地理学などの隣接分野でも同様に傑出した人材を輩出しました。当初から横断的な運動だったメタボリズムは、更に幅を広げて彼らとの共同の調査や構想を展開していきます。丹下の東海道メガロポリスや菊竹のチャンネル開発のような構想は、物理的な構造物という以上に社会的なシステムの展開といっても良いもので、黒川やもう一人のメンバーであった川添登などは国土計画の解説者として頻繁にテレビ等に登場し、彼らに近いところで「未来学会」が組織されます
こうした傾向のピークとして70年の大阪の万国博覧会があり、ここでは丹下健三の指揮下にすべてのメタボリストたちが参加しました。黒川の東芝IHI館、菊竹のEXPOタワーなど以上に、最も重要なものは、丹下が磯崎と共同して未来都市環境の実験として計画したシンボルゾーンの大屋根とその下のお祭り広場の演出でした。
こうした壮大な実験は、73年のオイルショックで社会の発展の右肩上がり幻想が崩れるとともに急速に忘れ去られていきます。50年を経て3.11以降の状況や人口減少時代の現実からすると、このヴィジョンは時代錯誤とも見えるかもしれません。しかし、あのようなヴィジョンは、高度成長時代だから可能だったのではなく、元々戦後の荒廃期や核戦争の脅威の下に展開されたことを忘れてはなりません。そうした総括は短絡的であり、そのDNAを継ぐ新しいメタボリズムこそが今要請されています。むしろ、逆風下だからこそ、先人たちの試みに対して萎縮した想像力による冷笑的な見方ではなく、長期的なヴィジョンの意義を学ぶことが必要であり、これは建築家、エコノミスト、あるいは政治家、官僚であるかを問わない課題であると思うのです。現在東京の森美術館で「メタボリズムの未来都市展」が開かれています。この機会に展覧会に足を運び、当時の熱気に改めて触れ、その想いを現在に至らせてほしいと切に願うものです。
