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メルケル首相の16年とドイツの行方

二村 伸  解説委員

「混乱・分裂か、不透明だが新しい始まりのチャンスだ」ドイツのメディアは今の状態をこう表現しています。メルケル政権の後継体制を決めるドイツの総選挙は、社会民主党が16年ぶりに第1党の座を奪還し、連立政権の樹立に向けて動き出しました。しかし、キリスト教民主社会同盟も政権維持をあきらめておらず、小政党の動向がカギを握っています。選挙の結果をふまえて新しい政権の見通しとメルケル首相の16年、そしてドイツの今後を考えます。

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まず26日に投開票が行われた連邦議会・下院議員選挙の暫定結果です。

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投票率はコロナ禍でも前回を上回りました。
▼第1党は中道左派の社会民主党で、206議席を獲得。
▼メルケル首相が所属する中道右派のキリスト教民主社会同盟は196議席にとどまりました。得票率は24.1%で結党以来最低です。
▼緑の党と自由民主党はともに議席を増やしました。
2005年に第2党に転落して以来低迷が続いた社会民主党は、キリスト教民主社会同盟が保守層の支持を失い、議席を大きく減らしたことで第1党に復帰しました。

同じような状況は98年にもありました。キリスト教民主社会同盟はドイツ統一の立役者で4期16年首相を務めたコール氏のもとで大敗を喫し、社会民主党に政権を明け渡しました。安定志向が強く急激な変化を望まないドイツでも長期政権に飽き、政治の刷新を求める声がうねりのように高まっていたことを現地で取材していて感じました。
今回は新しい政治を求める声以上に国民に幅広い人気のあるメルケル氏の引退が大きく影響したといえそうです。ドイツは主要政党が首相候補を立てて争うため、政策より誰に国のかじ取りをまかせるかに注目が集まる傾向があります。キリスト教民主社会同盟の首相候補ラシェット氏は洪水の被災地で笑顔で談笑していた姿が報じられて批判を浴び失速。社会民主党のショルツ氏はライバルたちの自滅によりトップに浮上しました。財務相として手堅い手腕が評価されるショルツ氏がポスト・メルケルに一歩近づいたかたちです。とはいえ過半数には3党の連立が必要で、ラシェット氏も連立政権樹立をめざすと表明したためまだ予断を許しません。

考えられる連立の組み合わせは3通りあります。

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▼1つは社会民主党と緑の党、自由民主党の連立で、政党の色から赤緑黄色の「信号連立」と呼ばれます。▼一方、キリスト教民主社会同盟も緑の党、自由民主党との連立を目指しており、この場合は黒緑黄色で「ジャマイカ連立」と呼ばれます。
緑の党は社会民主党に近く98年から7年間連立を組みました。自由民主党は政策が近いキリスト教民主社会同盟と何度も連立を組んできました。この2党がそろって2大政党のどちらにつくかで政権が決まります。▼3党の連立交渉が決裂した場合は、今と同じ2大政党による大連立の可能性も残されていますが、双方とも連立は望んでいません。ショルツ氏、ラシェット氏ともにクリスマスまでの政権発足をめざしていますが、
3党の交渉は難航も予想されます。

新政権にはコロナ後の経済の立て直しとともに、メルケル政権が積み残した様々な課題が待ち構えています。

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格差の是正とデジタル化の推進、それに気候変動対策などです。とくに気候変動対策は緑の党の連立入りが確実なだけにこれまで以上に重点が置かれることになります。
ドイツは2045年までの脱炭素社会実現をめざしていますが、緑の党は20年後の実現を掲げ、自由民主党は産業の競争力低下につながる政策には慎重です。また緑の党は富裕層への増税強化を求めているのに対し自由民主党は増税に反対しており、政策が大きく異なるこの2党がどう折り合いをつけるかが今後のカギです。

メルケル首相は新政権発足までとどまりますが、なぜ16年もの長期政権を維持することができたのでしょうか。

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メルケル氏はアメリカの雑誌フォーブスで、世界で最も影響力のある女性に10年連続1位に選ばれていますが、首相に就任した当初はここまで長期政権が続くと予想した人はほとんどいませんでした。メルケル氏は旧西ドイツで生まれた直後に牧師をしていた父親の仕事で旧東ドイツに移り住みました。1990年の東西ドイツ統一後初めて行われた選挙で、当時のコール首相に見いだされて初当選を果たし閣僚のポストを得ました。
2000年には闇献金疑惑で辞任した党首の後を継ぎましたが、党内の基盤はなく、カトリック教徒の党員が多い中プロテスタントで旧東ドイツ出身の女性政治家という当時としては異色の存在でした。取材でもごく普通の地味な政治家という印象を持ちましたが、2005年の選挙で勝利し、ドイツ初の女性首相に就任しました。

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当初は大きな期待もなかったメルケル氏が、国民から「ムティー」、お母さんと呼ばれ、ヨーロッパを代表する指導者にまでなったのは、安定感があり何事にも冷静で柔軟に対応する能力があるためだと言われます。その1例が脱原発です。首相就任後、産業界の要請を受けてシュレーダー前政権が決めた原発の全廃を見直し、稼働延長を打ち出しましたが、東京電力福島第一原発事故を受けて、「2022年までの原発廃止」に転じました。科学者としての冷静な目と臨機応変な判断に基づくものでした。金融危機やコロナ禍では危機管理能力の高さを示しました。
一方で同性婚の容認や徴兵制の廃止、それに多数の難民受け入れなど保守政党ながらリベラルで人道主義に基づく政策を進め、伝統的な保守層の支持を失いました。また、対中政策で人権問題に目をつぶり経済関係を優先したように現実的な面も持ちあわせています。恩人であるコール氏をはじめ党内のライバルを次々と蹴落としてトップの座を射止めた冷徹さも兼ね備えています。それが後継者が育たず、政権を明け渡すことにつながったのかもしれません。

では、メルケル後のドイツはどこへ向かうのでしょうか。

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アメリカは内向き志向を強め、代わって中国が台頭、フランスやイギリスは影響力が低下しました。世界は多極化が進み、欧米ではポピュリズムが広がり民主主義の危機が叫ばれてきました。そうした中でメルケル首相は、自由と民主主義、法の支配の堅持を訴え、トランプ前大統領にもひるまずモノを言い続けました。ヨーロッパがユーロ危機などを乗り越え、結束を保ってきたのもメルケル氏の存在があったからだと言われます。

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誰が次のリーダーになるにせよ、ヨーロッパをまとめることができるか、また、民主主義と多国間主義の守り手として各国指導者とわたりあうことができるか、手腕が問われることになります。ヨーロッパもまたドイツの強いリーダーシップを求めています。さらにドイツは近年中国への過度の依存を見直してインド太平洋地域に目を向け、日本などとの関係を重視する姿勢に転じました。この路線は変わらないと見られますが、対中国・ロシア関係をめぐっては中ロに近い社会民主党と人権重視の緑の党の対立も予想されます。

ドイツは来年G7の議長国です。政治空白の長期化は許されず1日も早く政権を発足させてほしいと思います。日本としてもアメリカ一辺倒ではなくドイツを要とするヨーロッパとの経済、安全保障をはじめ幅広い分野での関係強化に向けて、新政権が生まれるこの機会が絶好のチャンスだと思います。

(二村 伸 解説委員)


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