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「ノーベル化学賞 ゲノム編集と日本人の研究」(時論公論)

中村 幸司  解説委員

2020年のノーベル化学賞に、ゲノム編集という手法を開発した海外の研究者2人が選ばれました。生物の設計図とも言われる遺伝情報を、思った通りに書き換えることができるものです。
1987年に九州大学大学院・教授の石野良純さんらによって書かれた論文があります。実は、今回のノーベル賞の研究は、もとをたどるとこの論文に行きつきます。

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今回は、
▽ノーベル賞にえらばれたゲノム編集の研究に日本人がどのようにかかわっていたのか
▽ゲノム編集は、どのように優れたものなのかをみながら
科学研究に大切なこととは何なのか、考えます。

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今年のノーベル化学賞の受賞が決まったのは、
▽ドイツのマックス・プランク感染生物学研究所・所長のエマニュエル・シャルパンティエさんと、
▽アメリカ、カリフォルニア大学バークレー校・教授のジェニファー・ダウドナさんの2人です。

受賞の理由となったゲノム編集を簡単にみてみましょう。

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ヒトなど動物や植物の細胞には、体を作る設計図にあたる遺伝情報、つまり「ゲノム」がおさめられています。この遺伝情報を切断する、いわば「ハサミの役割」をする物質をつくり出したのがゲノム編集の研究です。
このハサミは、遺伝情報をでたらめに切るのではありません。どこを切るのかを示す「ガイド」のようなものがついていて、膨大な遺伝情報の中から狙った場所、ガイドに示された紫色の場所なら、その紫色の場所を捜し出して切ります。

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切った場所に遺伝子があれば遺伝子が切られます。
あとで詳しく述べますが、この手法は生物研究の飛躍的な進歩につながっています。
今回のノーベル賞は、この手法を開発した2人におくられることになりました。

ゲノム編集の研究は、さかのぼると九州大学大学院・教授の石野良純さんらの研究グループの論文にたどり着きます。
ゲノム編集と、どのような関係にあるのでしょうか。

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両者の研究をつなぐキーワードは「大腸菌」です。
遺伝情報を狙ったところで切るという手法は、研究者が一から考え出したわけではありません。大腸菌から、いわば「教わった」ものなのです。

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大腸菌は、ウイルスに繰り返し感染したとき、以前感染したウイルスの遺伝情報を覚えていて、これを目印に攻撃するという能力を備えています。

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このときの攻撃のしかたがユニークで、侵入してきたウイルスの遺伝情報を切断するという方法をとります。ウイルスの「遺伝情報を狙って切断する」というのは、まさにゲノム編集そのものです。

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一方、石野さんは大腸菌の酵素の研究をしていました。大腸菌の遺伝情報を調べたところ、同じ情報が何回も繰り返されている不思議な部分を見つけました。当時の技術では、この部分の役割はわかりませんでしたが、その不思議な部分が、実は大腸菌のハサミに関係していたのです。

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整理すると、石野さんらが見つけた大腸菌の不思議な遺伝情報が、後になって、ウイルスを攻撃する際に使う「遺伝情報を狙ったところで切断するハサミ」とわかり、それを応用したのがゲノム編集なのです。
つまり、ノーベル賞の研究の源流に石野さんらの研究があったのです。

では、ゲノム編集がなぜノーベル賞受賞となるほどに注目されているのでしょうか。それは、自由自在に遺伝情報を書き換えられる点です。

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例えば、異常な遺伝子のある場所をハサミで切断すれば、遺伝子は破壊、つまり「削除」されて、遺伝子の機能を止めることができます。
切断するとき、正常な遺伝子と「置き換える」こともできます。遺伝子の機能が修復されるわけです。

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さらに切断したところに、新たな遺伝子を「挿入」することもできます。機能が付け加えられるわけです。

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私たちがパソコンの文章を書き換え、編集するように、遺伝情報つまり「生物の設計図」を自由に書き換えられるわけです。さらに、このハサミは簡単に作ることができ、研究が飛躍的なスピードで進んでいます。
授賞理由では「がんの新しい治療法の開発や作物の品種改良などに使われ、生命科学を新しい時代に導いた」と評価しています。

ゲノム編集のこうした可能性は、同時に難しい課題も伴っています。

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例えば、病気に関係している異常な遺伝子を「削除」したり、正常な遺伝子に「置き換え」たりすることで、これまで治すのが難しかった病気の治療に道をひらく可能性があります。
その一方で、大きな課題があります。
ヒトの設計図を書き換えていいのか、どこまでなら認められるかという議論です。病気を治すために使うことは認められても、受精卵をゲノム編集することには、大きな問題があります。編集した遺伝情報が次の世代、その次の世代へと受け継がれてしまうからです。受精卵のゲノム編集が、のちのち何を引き起こすのか、私たち人類は、ほとんどわかっていないと言ってもいいと思います。2年前に中国の研究者が受精卵にゲノム編集を実施し、双子の赤ちゃんが生まれたと発表し、世界中の科学者や社会から非難されたことは、覚えている方も多いと思います。
さらにゲノム編集は、子どもの目の色、背の高さといった外見や運動能力などを、思ったようにデザインする、いわゆる「デザイナー・ベビー」の誕生を可能にします。
ゲノム編集は、動物や植物の研究にも使われています。例えば、特定の成分を多く含むトマトや、筋肉の量が1.5倍あるいは2倍になったウシや魚といった食品への応用です。
ゲノム編集の食品のうち、一部の方法については日本でも、流通が認められるようになりましたが、安全性について懸念する声は依然としてあります。
ゲノム編集された遺伝情報を持った動物や植物が広がったとき、生態系への影響は問題ないのか。

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ゲノム編集は、大きな可能性を持っている一方で、その使い方には、慎重な議論が必要なのです。
こうしたことは、ゲノム編集に限らず、高度化する科学技術に共通したものであるとも思います。誤った使い方をして、取り返しのつかないことにならないよう、科学者にも、社会にも、自らを律することが一層求められています。

1987年に論文を書いた石野さんは、以前、私が大学の研究室で話を伺った時、自分がゲノム編集の手法を見出せなかったことについては、「ちょっと悔しい想いもある」と話していました。
ただ、ここで強調しておきたいのは、わからないことを論文に書いておいた点です。「同じ遺伝情報が5回繰り返されている不思議な部分がある」というのは、論文のテーマと直接は関係ありませんでした。

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石野さんらは、5ページの論文の考察の最後に、このことを記しました。書いた理由について石野さんは、「わざわざ5回も繰り返されている情報だから、何か大切な機能があるに違いないと考えた」と話していました。
もし、このことを論文に書かなければ、ゲノム編集の研究・開発は、今より遅れていたと思います。
2020年のノーベル化学賞の受賞者の中に日本人の名前がなく「残念」と思った方もいるかもしれません。しかし、科学的に重要なことを直感し、わからないことにこだわった石野さんたちの研究が、大きな意義あるものだったことをあらためて示したと思います。
そして、画期的なゲノム編集は、倫理的・社会的問題を引き起こす恐れがあるだけに、今後、どのように応用されていくのか、私たちも注視していく必要があります。

(中村 幸司 解説委員)

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