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「『黒い雨』訴訟原告勝訴 「被爆」の意味は」(時論公論)

清永 聡  解説委員

広島に原爆が投下された直後に降った「黒い雨」。放射性物質を含むこの雨で健康被害を受けたと訴えた裁判で、広島地方裁判所は29日、原告全員を被爆者と認め、広島市などに被爆者健康手帳を交付するよう命じる判決を言い渡しました。
黒い雨をめぐり、救済の枠組みを大きく広げた初めての判断とその背景について考えます。

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【解説のポイント】
解説のポイントは、
「黒い雨とは何か」
「焦点は雨の範囲」そして
「75年の課題」です。

【黒い雨とは何か】
1989年に公開された今村昌平監督の映画「黒い雨」です。黒い雨を浴びた女性が、やがて原爆症を発症するという、被爆時の日記などをもとにその悲劇を描いた作品です。

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これは住宅の壁に残されていた黒い雨の痕跡です。
原爆投下直後に、爆風と街を焼き尽くした火災によってすすなどが巻き上げられ、放射性物質を含んだ黒い雨をもたらしました。
映画の原作で井伏鱒二は「降つてくるのは万年筆ぐらゐな太さの棒のやうな雨であつた。真夏だといふのに、ぞくぞくするほど寒かった」(「黒い雨」より)と記しています。

【降雨範囲が裁判の焦点に】
この黒い雨はどこで降ったのでしょう。当時の広島管区気象台の職員たちが調査を行っています。

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調査でこの楕円形が「強く降った地域」とされました。爆心地からおよそ南北19キロ、東西11キロです。

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調査結果を元に国は「援護区域」を指定しました。この中にいた人は、健康診断を無料で受けることができ、国が指定した11種類の病気のいずれかを発症した場合、被爆者健康手帳が交付されて、医療費などが支給されます。
今回の84人の原告は、援護を受けられない、楕円形の外側の住民です。しかし、気象台の調査とは異なり、自分たちの住んでいる場所にも「ザーザーと黒い雨が降った」「大降りとなった」という証言が相次いでいます。なぜでしょうか。

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実はこの気象台の調査は、終戦直後の昭和20年9月から12月という原爆投下直後に、職員らわずか6人で行ったものでした。
当時としてはできる限りの取り組みだったと思われますが、放射能の専門家ではない上、食糧事情も悪く、日帰りの範囲でしか調査ができませんでした。
聞き取りは100数十件にとどまり、爆心地から離れた場所ほど、調査は手薄になりました。
加えてこの調査では、「小雨が降った」とされる地域もまとめられましたが、国は「小雨」の範囲を基本的に援護区域に含めず、「強い雨が降った地域」に限定したのです。

【原告の思いは】

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原告の1人。広島市佐伯区の本毛稔さん(80)です。援護区域の境界線である川を挟んだすぐ外側で、黒い雨を浴びました。
当時、5歳。自宅に井戸はなく、黒い雨が流れ込んだ沢の水を飲み、黒い雨を浴びた野菜を食べていたということです。
その後、本毛さんは、たびたび鼻血が出て止まらなくなりました。やはり雨を浴びた2歳の弟は、肝硬変で亡くなります。自身も白内障を発症し、3度手術を受けてきました。しかし、区域外のため、援護を受けることができません。
本毛さんは「黒い雨が降っていたことは確かだ。川を境に一律に線引きをするのはおかしい」と訴えています。

【市・県も拡大を要望しながら裁判は“ねじれた構図”に】
もっと詳細な調査はできなかったのでしょうか。

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実は、広島市は2008年に3万6000人を対象にした大規模なアンケート調査を行っていました。この結果を研究班が分析したところ、黒い雨が降った地域は今の区域の6倍に広がる可能性があることが分かりました。2010年に広島市と広島県などは、これを基に、国に支援の拡充を要望しました。
しかし国の検討会は、「区域の拡充は困難」という結論をまとめ、救済の対象を広げることはできないという結論になりました。

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国は「税金が使われることや、すべての国民が戦争被害を受けたことを考慮すると、科学的・合理的な根拠が必要だ」という立場を取っています。
援護区域を決めているのは国です。しかし被爆者健康手帳の交付事務を行っているのは自治体のため、裁判では事務を担う広島市や県が被告となり、国の方針に従って争い続ける、いわば「ねじれた構図」になっていたのです。

【判決の指摘は】

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29日の判決で広島地方裁判所は、黒い雨の範囲について、「かつての気象台の調査に限定せず、ほかの調査結果なども参考に、もっと広い範囲で黒い雨が降った事実を確実に認めることができる」と指摘し、黒い雨が降ったのは、援護区域よりも広範囲だと判断しました。
そのうえで、放射性物質を体内に取り込む「内部被ばく」について、「黒い雨が混じった水を飲み、付着した食べ物を食べたことなどによる内部被ばくの可能性を検討する必要がある。雨の降った時間だけで扱いを分ける合理性はない」などと指摘しました。
そして原告1人1人の証言や診断書を検討した結果、原告全員を被爆者と認め、被爆者健康手帳を交付するよう命じたのです。

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現在の援護区域に限らず、黒い雨を浴びた人たちを幅広く救済の枠を広げた初めての判断です。判決は今回の原告に限らず、支援の対象を限定している、現在の援護区域の見直しを事実上迫るものとなりました。

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判決について原告の本毛稔さんは「長い裁判の途中で亡くなった16人の仲間に、『勝ったよ』と伝えたい」と話しました。
一方、被告のうち広島市の松井市長は「原告の方々の切なる思いが司法に届いたものと受け止めている。被爆者健康手帳の交付事務は法定受託事務なので、今後の対応については、厚生労働省、広島県などと協議して決めたい」とするコメントを出しました。

【長年翻弄されてきた歴史】
ノンフィクション作家の柳田邦男さんによる「空白の天気図」には、終戦直後の気象台の報告書に書かれた黒い雨に関する証言内容が記されています。

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そこには、作物が枯れ、池や川の魚が死んで浮かび上がってきたほか、住民も脱毛や下痢などの症状がみられたことが書かれています。
しかし、この報告書はGHQが発表を許可しない方針を明らかにしたため、当時、公表されませんでした。現在からみれば十分な規模とは言えないこの調査報告書でも、一般に明らかにされたのは終戦から8年後の1953年のことでした。

原告の多くは、黒い雨の危険性を長く知らされず、明らかになった後も、今度は原爆症への恐怖や、一律の線引きで被爆者と認められないいらだちを抱えてきました。それは黒い雨によって長年、翻弄されてきた歴史でもあるように思います。

原爆投下から今年で75年になります。
黒い雨をめぐる今回の判断は、爆心地から離れた人々に影響を与える原爆の恐ろしさを改めて示すとともに、75年たった現在も残る課題を浮き彫りにしました。
高齢化が進む中で、今回の判決をきっかけに、今後は少しでも早く、黒い雨を浴びた人々の救済が望まれます。

(清永 聡 解説委員)

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