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「野村克也さん 野球界に残したものは」(時論公論)

小澤 正修  解説委員

野球界で存在感を示し続けてきた野村克也さんが今月11日、84歳で亡くなりました。劣等感をばねに、エリートに負けるか、という反骨心を持ち、技術を超えた「無形の力」の大切さを訴えた野村さん。その背景にあったもの、野球界に残したものについて3つの言葉から考えます。

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①まずは、自らを例えた「月見草」について。
②そして代名詞となった「ぼやき」。
③最後に「人を遺す」という、野村さんの信条です。

▼「ひっそりと咲く月見草」

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「王、長嶋がひまわりなら、オレはひっそりと咲く月見草」。野村さんが通算600号ホームランを記録した後に残した言葉です。昭和29年に南海に入団し、8年連続ホームラン王や戦後初の三冠王に輝き、守備が中心だったキャッチャーの概念を変えた野村さん。しかしONと呼ばれた王貞治さんと長嶋茂雄さんの活躍で巨人が9連覇を果たし、野村さんが先行していた記録も、後を追う「世界のホームラン王」に次々と破られていきました。高度経済成長にあわせ、「巨人・大鵬・卵焼き」と言われた絶大な人気を誇るチームの中心にいた2人に、野村さんは強烈なライバル心を抱きました。しかし、当時、全国区の人気だった巨人とは裏腹に、パ・リーグは注目されることが少なく、野村さんが600号ホームランを達成した試合も観客は1万人を切っていたと言います。ONと同じ時代を過ごした選手の悔しさを「月見草」という言葉で表現したのです。

▼原点は「劣等感」

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とはいえ、ONのような選手の存在こそが、野村さんの原動力だったと思います。野村さんは常々、「劣等感」という言葉を口にしていました。幼い頃に父親を戦争で亡くし、苦しい生活の中、プロ野球での活躍を夢見ましたが、高校時代は無名の存在。スカウトから声はかからず、高校の先生が球団に手紙を書いて入団テストを受け、母親の猛反対を押し切ってのプロ入りでした。わずか1年で戦力外通告を受けますが、「母親にあわせる顔がない」と必死に球団を説得して残留したと言います。野村さんはこうした劣等感を、ONのように高校や大学で華々しく活躍したエリートには負けたくないという反骨心に変えたのです。

▼もうひとつの原点 「不器用」から「考える野球」へ

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また、野村さんは自身を「不器用だった」とも振り返っています。4年目で初めてホームラン王のタイトルを獲得しましたが、そこから成績が低迷。速球には強いが変化球にもろく、技術だけで生き抜く限界を感じたと言います。どうしたら結果を残し続けることができるのか。野村さんは、当時は珍しかった、相手の研究に活路を見いだしました。苦手にしていた稲尾和久さん、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた西鉄のエースを攻略するため、投球フォームを撮影し、フィルムがすり切れるほど見た結果、球種によって投げる直前のボールの見え方にわずかな違いがあることを見つけました。相手のクセだけでなく、ピッチャーの配球、時には相手の心理状態まで徹底的に分析し、野村さんは再び成績を伸ばしました。途中から監督も兼任し「4番・キャッチャー・監督」という重責を担いながら、3000以上の試合に出場。ホームラン657本、2901安打、1988打点は全て歴代2位と、ONと遜色ない圧倒的な記録を残し、野球殿堂入りも果たしました。野村さんが本格的に始めた対戦相手の分析は、今では当たり前のように行われています。劣等感から、エリートへの反骨心を持ち、もっとうまくなりたい、もっと勝ちたいと考え続けた「月見草」は、球界に大きな影響を与え、「ひまわり」に匹敵する輝きを放ったのではないかと思います。

▼選手を嘆く「ぼやき」について

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現役時代に培った「考える野球」を体系づけた野球理論は、指導者として優勝争いから遠ざかるチームを率いた野村さんの大きな武器となりました。観察力や判断力など目に見えない「無形の力」、データを重視・活用する「ID野球」がその中心です。キャンプでは、毎晩1時間以上のミーティングを行い、選手の意識改革を進めようと、内容は心理学や哲学、人生論にまで及びました。選手は自分の役割を認識し、責任を果たすこと。セオリーやデータを自らのものとし、「無形の力」を加えた根拠のあるプレーをすることを求めたのです。弱者がどう強者に立ち向かうのか。現役時代、生き残るために考え抜いたことを、チームの戦略にあてはめました。

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代名詞の「ぼやき」の多くは、選手が考えずに根拠のない行動をしたと感じた時に、発せられました。逆に、根拠があれば、失敗してもぼやかれることは少なかったと言われています。見逃し三振をした時、野村さんは、「どうせ三振するなら振ってこい」とは言わずに、なぜ見逃したのか、選手に根拠を問いました。納得できれば、ぼやくことはなく、選手のほうが拍子抜けしたこともあったそうです。「ぼやき」には反発もありましたが、野村さんは、なにくそと発奮し、成長してもらいたかったと著作に記しています。野村さんは次々と新たな戦法を考案し、ヤクルトは9年間で4回のリーグ優勝と3回の日本一に輝く黄金期を築きました。力と力のぶつかり合いがプロ野球の魅力であるのはもちろんですが、野村さんが野球というスポーツの奥深さを広め、各球団としのぎを削ったことで、球界全体がレベルアップしたと言えるのではないでしょうか。

▼選手はどう受け止めたのか

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では、選手はどう感じていたのでしょうか。球界屈指の二遊間コンビとして活躍したヤクルトの土橋勝征さんと宮本慎也さん。守備は超一流もバッティングが課題だった宮本さんは、野村さんから「お前は守るだけの選手だ」とぼやかれていました。一方で「チームのためにやれることはある。一流の脇役を目指せ」という言葉が胸に刺さったと言います。アウトになってもランナーを進めるバッティングを身につけようと、狙った方向に打球を飛ばす練習を繰り返して力をつけ、通算2000本安打を達成。宮本さんは「ホームランを打っても“勘違いするなよ”と言われた。自分のようなタイプの選手がプロとして生き残る方法を教えてくれた」と振り返ります。また「いぶし銀」のプレーで存在感を示した土橋さんは高校時代、長打力が持ち味でした。しかし野村さんから「バットを短く持ってもボールは飛ぶ」と言われ、プレースタイルを変えて、相手が嫌がる勝負強い選手に成長。「ID野球の優等生」と呼ばれました。今もコーチを務める土橋さんは「パワーもスピードも飛び抜けたものがなかった自分をここまでにしてくれた恩人」だとしています。野村さんは他球団で力を発揮できないでいる選手を獲得してひと花咲かせる「再生工場」と呼ばれた手腕にも長けていました。理論派で、ぼやきの印象が強い野村さんですが、その根底には、選手をどうしたら活かすことができるのか、いい思いをさせてやれるのかという人情、選手への愛情があふれていたのではないかと思います。

▼野村さんが野球界に残したものは

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人生訓にまで及んだ野村さんの言葉は、野球界を超えて支持されました。その野村さんが好んでいたのは「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」という言葉です。財産や仕事の業績より、人材の育成に価値があるという意味です。「野村野球」に触れた選手たちは今シーズン、12球団中、実に6球団で監督を務め、東京オリンピックでは教え子の1人、稲葉篤紀監督が金メダルを目指します。数々の変革をもたらした野村さんですが、自身の信条通り、愛情を持って選手を育てることで、なすべきことを自分で考える「無形の力」を持った数多くの後輩たちを球界に残すことができたのではないかと思います。後輩たちに、令和の野球界で、さらに野球の奥深さを追求していってほしいというのが、誰より野球を愛した野村さんの願いではないでしょうか。

(小澤 正修 解説委員)

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