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「がんゲノム医療本格開始へ 可能性と課題」(時論公論)

中村 幸司  解説委員

日本のがん治療が大きな転換点を迎えました。これまで、限定的な枠組みで進められてきた「がんゲノム医療」に、2019年6月から公的な医療保険が適用されることになりました。より多くの患者が受けられる医療として本格的に始まります。
がんゲノム医療とは、患者一人一人のがん細胞の遺伝情報、つまりゲノムを詳しく調べて、効果のある薬を効率よく見つけ出し治療に結び付けようというものです。手術や抗がん剤の投与など標準的な治療を行っても容体がよくならない患者に、治療に向けた新たな道ができることにはなりますが、その一方で、効果が期待される薬による治療が開始できるケースは10%から20%にとどまるとみられていて、課題も少なくありません。
がんゲノム医療の可能性と課題、そして今後、進めていく上で何が必要なのかを考えます。

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まずは、がんゲノム医療とはどういったものなのか、みてみます。

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細胞の中には遺伝情報、つまりゲノムが入っています。上の図では単純化して、1本の帯で表現します。そのところどころに「遺伝子」と呼ばれる生命活動に必要な物質を作りだす部分があります。この遺伝子は、紫外線などによって傷ついてしまうことがあります。いくつもの傷が蓄積すると、細胞は秩序を失って、勝手に増殖するようになります。これががん細胞です。

がん治療の難しさのひとつに、同じ臓器のがん患者でも、Aという薬が効いて、薬Bが効かない人と、薬Bが効いて、薬Aは効かない患者がいます。

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原因は、上の図のように傷ついている遺伝子が異なるためと考えられています。
これまでの研究などから、青で囲んだ遺伝子が傷ついているがんには、薬Aが効き、緑の遺伝子が傷つくと薬Bが効くというように、薬の効き方と関係性が強い遺伝子が、いくつもあることがわかってきました。

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そこで、上の図の患者に合う薬を選ぶとき、がん細胞のどの遺伝子が傷ついているかを検査して、最適な薬を選び、治療しようというのが「がんゲノム医療」の考え方です。上の図のように、緑の遺伝子が傷ついていれば、薬Bを投与すれば治療効果が期待できます。

6月から保険適用されることが決まった検査システムは、1つ2つの遺伝子を検査するのではなく、一度に100ないし300あまりの遺伝子を調べます。

では、患者は具体的にどのようにがんゲノム医療を受けるのか、その流れが下の図です。

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対象になるのは、手術や放射線療法、抗がん剤を使った薬物療法といった標準的な治療を受けても容体がよくならない人など、有効な治療法がない患者です。
がん細胞の一部を取り出して、遺伝子の状態を検査します。検査結果は、コンピューターで解析されます。そして「どの遺伝子に傷があるか」といったことなどが示されます。結果について、がんの専門家などが集まって、最新の医療情報をもとに、どの薬が有効か検討します。
すでに承認されている薬で見つかれば、その薬を投与することになります。承認されていない薬の場合、患者は治験や先進医療などの枠組みを利用して、投与を受けます。

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一連の検査などの費用は、3割負担の人の場合、16万8000円です。高額療養費が適用される場合、負担は所得に応じて抑えられますが、薬の投与による治療費は、この中に含まれません。先進医療などでは、別途、自己負担が必要になります。

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がんゲノム医療を受けられるのは、スタートの段階では、中核拠点病院に指定された全国11病院と、その病院から支援を受ける156の連携病院になります。保険適用される6月から一斉に始まるというのではなく、病院側の体制などが整った医療機関から順次、患者を受け入れることになるということです。
全国のデータは、国立がん研究センターで一元的に管理されます。「究極の個人情報」とも呼ばれる遺伝情報だけに、万全に管理しなければなりません。

では、がんゲノム医療に、どのような課題があるのでしょうか。

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一つは、がんゲノム医療を受けても、薬の投与までに至るケースは10%から20%程度、つまり、多くの患者は遺伝子を検査しても新たな薬にたどり着かないのが現状だとされている点です。

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これは、有効な薬と遺伝子に関するデータがまだ十分でないことなどが理由です。今後、多くの患者ががんゲノム医療を受ければ、データが蓄積されていきます。解析の精度が向上すれば、この割合も増え、この課題は将来解消されることが期待されています。

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受け入れる患者の人数について厚生労働省は、2019年度中に年間およそ2万人になるとしています。一方で、対象になる患者はそれを上回る数万人規模ともいわれています。必要とする患者が医療を受けられないということのないよう、今後も取り組まなければなりません。

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さらに、遺伝情報を分析すると、生まれながらにしてある先天的な遺伝子の傷が見つかる可能性があります。先天的な状態は、子孫に受け継がれる可能性がある微妙なことだけに、そうした情報は知りたくないと考える人もいると思います。がん患者本人が「先天的な情報については知りたくない」と、あらかじめ病院側に断っておくことは可能です。しかし、患者が断らなかった場合、先天的な遺伝子の傷があるという情報が、そうしたことを知りたくない家族に患者から伝わってしまうケースが考えられます。
遺伝情報を知ることは、患者自身だけの問題ではないのです。
こうした課題があるだけに、患者には十分な説明をして理解してもらうことが大切です。がんゲノム医療では、医療を受け始めるときや遺伝情報の解析結果が伝えられるときなどに、遺伝カウンセリングなどの専門家が患者に説明することになっています。
特にこの医療の限界や遺伝情報の意味合いについて、十分理解できるように伝えることが大切と考えます。

日本のがんゲノム医療が本格的に始まりますが、実は、欧米などと比べて遅れをとっているといわれています。イギリスでは、遺伝情報を徹底して治療や研究に生かそうと、ゲノムの端から端まで、すべての遺伝情報を読み取る方法が進められています。

日本も、こうした海外の状況に追いつこうと、すべてのゲノム解析などの準備を進めています。ただ、これから、がんゲノム医療を進めるうえで求められることがあります。

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それは、「がんゲノム医療は社会の理解のもとで行わなければならない」という点です。遺伝情報の活用を広げることは、がんゲノム医療のレベル向上につながると考えられますが、そうした中で、遺伝情報が例えば医療以外に使われるなどして、患者や家族が差別を受けるようなことはあってはなりません。
こうした考えから、例えば、国内の生命保険会社で作る「生命保険協会」は、保険の加入・支払いなどの際に遺伝情報の収集や利用をしないという現在の方針を、ガイドラインに明記することを検討しています。
こうした動きは必要ですが、それで十分なのでしょうか。
欧米などの国がそうしているように、遺伝情報の取り扱いについて法律を作る必要がないのか、いま広く議論することが求められると思います。

がんゲノム医療は、今後のがんの治療を、大きく変えることになると考えられます。これまでは救えなかったがん患者の新たな治療法に結びつけるために、医療現場の態勢整備が急務になっています。
2人に1人ががんになるこの時代、新たな医療を受け入れる環境を社会に作っていくことが、私たち一人ひとりに、いま求められていると思います。

(中村 幸司 解説委員)


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