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「小笠原返還50年 終わらない硫黄島の戦後」(時論公論)

増田 剛  解説委員

今年は、戦後長らく、アメリカの占領下にあった小笠原諸島が日本に返還されてから、半世紀となる節目の年です。そして、まもなく日付が代わり、小笠原が返還されてから50年目の終戦の日を迎えます。
ただ、小笠原諸島のうち、太平洋戦争の激戦地だった硫黄島は、返還後も、日米が軍事拠点とする位置づけが変わっていません。
元島民ですら、帰還は許されておらず、日本人戦没者の遺骨収集も、今後の見通しは厳しいのが現実です。
島民も帰還できず、戦没者の遺骨も遺族の元に戻れない島、硫黄島の「終わらない戦後」について考えたいと思います。

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解説のポイントです。
硫黄島が、返還後も、日米の軍事拠点として利用される実情をおさえます。その上で、返還時に日米間で取り交わされた、いわゆる「核密約」について検証します。そして、難航する日本人戦没者の遺骨収集の現状を見る中で、島の軍事利用の歴史が、今にもたらす影響を考えます。

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小笠原諸島の硫黄島は、東京の南およそ1250キロの太平洋上に位置する火山島です。戦前は、硫黄の採掘などを営む住民およそ千人がいましたが、太平洋戦争末期の1944年、戦況が悪化していたことから、大部分が本土などに強制的に疎開させられました。
一方、アメリカ軍は、日本本土攻略に向けた前段階の攻撃目標として、硫黄島に狙いを定めます。硫黄島は、アメリカ軍が拠点を置くマリアナ諸島と東京の中間点に位置し、滑走路もあるため、日本本土に爆撃を行う際の中継基地として重視されたのです。
1945年2月、島は、激しい空爆と艦砲射撃にさらされました。
海兵隊による上陸作戦が開始され、地下壕にこもる日本軍守備隊との間で、凄惨な地上戦が繰り広げられました。翌3月、アメリカ軍が島を制圧しましたが、日本側はおよそ2万1900人の死者を出して全滅、アメリカ側もおよそ6800人が犠牲になりました。
太平洋戦争最大の激戦の一つとなった硫黄島。
アメリカ兵が、島を見渡せるスリ鉢山の頂上に、星条旗を立てる姿を捉えた写真は、史上最も有名な報道写真の一つとされています。アメリカでは、この写真をもとに、首都ワシントン郊外に、海兵隊戦争記念碑が建てられました。

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戦後、アメリカは、勝利の象徴であるこの島に、基地を築きます。
朝鮮戦争では、物資を運搬する軍用機の補給拠点となり、東西対立が激しかった1950年代後半には、旧ソ連との核戦争に備え、核兵器が貯蔵されました。

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そして今から50年前の1968年、アメリカの占領下から日本に返還された後は、自衛隊の航空基地が置かれます。島全域が基地の敷地となり、自衛隊員以外の立ち入りは、原則として禁止され、元島民ですら、墓参や遺骨収集を除いて、上陸が許されません。
現在、硫黄島は、東京と沖縄、グアムから、ほぼ等距離にあるという地政学的な重要性もあり、日米による軍事拠点化が進んでいます。
自衛隊の支援のもと、アメリカ軍の空母艦載機の着陸訓練が行われているほか、防衛省は、中国軍の海洋進出をにらみ、硫黄島での警戒監視レーダーの整備を目指しています。
返還から50年のことし、こうした硫黄島の軍事拠点化の歴史を象徴する出来事として、外交研究者の間で注目が集まっているのが、いわゆる「小笠原核密約」=「小笠原議事録」です。

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小笠原議事録は、1968年4月の小笠原返還協定時に交わされることになっていた、当時のジョンソン駐日アメリカ大使と三木外相との議事録の英語の案文です。アメリカ政府内で保管されていたもので、1995年に機密指定が解除されました。

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それによりますと、ジョンソン氏は「小笠原群島及び火山列島への核兵器貯蔵が必要となる非常事態において、アメリカは日本政府にこの問題を提起することを望み、日本政府からの好意的反応を期待する」と述べました。これに対し、三木氏は「あなたが指摘した事例は、まさに日米安全保障条約の事前協議の対象であり、あなたが引用する事情のもとでは、日本政府は、そのような協議に入るとしか言えない」と答えています。
日米安保条約の事前協議制度は、日本におけるアメリカ軍の装備の重要な変更に対し、事前に日米で協議することを定めた制度ですが、日本に拒否権を保証したものではないとされ、そもそも、これまで一度も開かれたことがありません。

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この問題を研究している名古屋大学大学院の真崎翔特任助教は、「核を持たない、作らない、持ち込ませないという非核三原則を標榜しておきながら、それに明確に抵触する核兵器の貯蔵を、すでに形骸化していた事前協議の対象にすると確約したことは、当時の日本政府が、アメリカによる、有事における核兵器の硫黄島への貯蔵を黙認したに等しい」と述べています。
これが、小笠原議事録が「核密約」と呼ばれるゆえんです。
これに対し、外務省は、「アメリカで公開された文書についてコメントはしない」という立場です。また、返還後、実際に硫黄島に核兵器が貯蔵されたという記録はありません。
ただ、真崎氏は「文書で残した意味は大きく、これは、今も有効だろう。硫黄島への元島民の帰還が許されない背景のひとつにもなっているのではないか」とみています。
返還から50年を経ながら、元島民ですら自由に戻れない硫黄島。70年以上前の政府による強制疎開が今も続いている状況だといっても、過言ではないでしょう。

こうした中、硫黄島での日本人戦没者の遺骨収集は、難航を余儀なくされています。

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硫黄島では、日本軍およそ2万1900人、アメリカ軍6821人が戦死しました。アメリカは、全ての遺体と遺骨を収容したとされていますが、日本がこれまでに収容できた遺骨は、1万437人。半数以上の1万1500人近くがいまだに見つかっていません。
どうして日本人の遺骨収集は進まないのか。

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遺骨収集事業は、1968年の小笠原返還後、本格化しましたが、この時点で戦後23年が過ぎており、収容は、そもそも難しかったようです。翌年には、最も多い2800を超える遺骨が見つかりましたが、その後、次第に減少します。
また、日本軍は、全長10数キロに及ぶ地下壕にこもる持久戦を展開し、多くの兵士は壕の中で死んだとみられていますが、近年は、この壕を探し出すことが困難になっています。島で戦った元兵士の高齢化が進み、当時の情報を得るのが難しくなっているからです。
2014年度からは、それまで手つかずだった滑走路の下を、地中探査レーダーを使って調査し、反応があった場所を掘る作業に着手しました。その結果、新たに見つかった壕から2体の遺骨が収容されましたが、これが、残された1万体以上の発見につながるかどうかは、不透明です。過酷な環境の下で、関係者の懸命な努力が続けられていますが、全ての遺骨を収容できる見通しは立たないのが現実です。
返還50年。硫黄島で「玉砕」という名の絶望的な戦いを強いられ、命を落とした多くの兵士の遺骨は、いまだに島に眠り、遺族の元に帰れません。かつて強制疎開を強いられた島民も、帰郷はかないません。
平成が終わろうとしている今も、硫黄島の戦後は続いています。

(増田 剛 解説委員)

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