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「慰安婦合意 崩壊の危機」(時論公論)

出石 直  解説委員

日韓関係の最大の懸案となっていた慰安婦問題で両国政府が合意に達してから一年あまり。
両首脳が「歴史的な合意」と成果を強調していた合意が崩壊の危機に瀕しています。

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韓国プサンの日本総領事館前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことを受けて、日本政府はソウルに駐在する長嶺大使らを一時帰国させるなどの対抗措置を取りました。
一方、韓国では政権奪還を目指す野党陣営を中心に合意の撤回と再交渉を求める声が高まっています。

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◇せっかくまとまったはずの合意は、なぜまたこじれてしまったのでしょうか。
◇その背景には、韓国政治の混乱の中で、慰安婦問題が政争の具になってしまっていることが指摘できます。
◇今回の事態、果たして“落としどころ”はあるのでしょうか?

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順に見ていきます。
おととしの年末、日韓の両外相が揃って発表した合意で、慰安婦問題は「最終的かつ不可逆的に解決される」はずでした。
ただ合意成立当時から、少女像の扱いはいわば時限爆弾のような存在でした。

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合意内容です。
▽「公館の安寧・威厳の維持の観点から日本政府が懸念していることを韓国政府は認知している」としたうえで、
▽「韓国政府としても関連団体との協議などを通じて、適切に解決するよう努力する」となっています。
日本側は「合意を受けて少女像が撤去されるのは当然だ」としているのに対し、韓国政府は「民間団体が設置したものを政府が強制的に撤去することはできない」としており、もともと両者の解釈には少なからぬ隔たりがありました。

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地元自治体の対応にも問題がありました。
日本総領事館があるプサン市東区の区長は、当初「公道に像を設置することは許可できない」としていました。そしていったんは像の前に座り込んでいた学生らを警察官を動員して強制的に移動させ像を撤去しました。しかし、区に抗議の電話が殺到したため、わずか2日後には態度を一転、像の設置を認めたのです。

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ここでもう一度、両国間の合意文を見てみましょう。「公館の安寧・威厳の維持」という一文が重要です。これは、大使館や領事館など外国公館の保護を定めた「ウィーン条約」という国際条約の取極めを指しています。
韓国外務省は、あくまでも地元自治体の判断に委ねるとしていますが、合意内容をどう解釈するかに関わらず、韓国政府にはウィーン条約を履行する義務があるはずです。自治体任せでは責任逃れと言われても仕方ありません。
ただ韓国で少女像はシンボル的な存在となっています。強制的な撤去に乗り出せば政府への反発が強まるだけでなく、かえって火に油を注いでしまう結果を招きかねません。
韓国政府の苦しい立場も理解しておく必要があるでしょう。

【政争の具に】

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次に政争の具。問題を複雑にしているのは、パク・クネ大統領をめぐる一連のスキャンダルで、慰安婦問題が政争の具になってしまっているからです。

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おととしの合意は、両者が受け入れ可能なぎりぎりの選択でした。主張の隔たりを乗り越えて合意に至ったのは、核ミサイル開発を加速させる北朝鮮への対応など連携すべき課題が山積している中で、いつまでもこの問題でいがみ合っていてはならないという共通の認識があったからです。同様の懸念を抱くアメリカが合意を強く後押ししたこともありました。

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しかしこの政治決断が、韓国国内では驚きと戸惑いをもって受けとめられたこともまた事実です。パク・クネ大統領は、就任以来、歴史認識の問題では一貫して日本に対し強い姿勢を示し「元慰安婦が受け入れ可能」で「国民が納得できる結果」でなければ受け入れないと繰り返し述べていました。それにも関わらず、一転、合意を受け入れたのです。
元慰安婦や支援団体だけでなく国民に対して説明し理解を求めるという努力や根回しが十分であったとは到底言えません。多くの国民にとって突然の合意という印象は否めなかったでしょう。

≪パク退陣要求デモ≫
そんな割り切れない思いが、パク・クネ大統領をめぐる一連のスキャンダルをきっかけに一気に噴き出したのです。不透明な政局運営、国民不在の政治といったパク・クネ政権に対する不平不満が、慰安婦合意に対する批判と一体化してしまったのです。政権奪回を目指す野党陣営は、ここぞとばかりに慰安婦合意の撤回と再交渉を声高に主張するようになりました。

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一連のスキャンダルで、現在、パク・クネ大統領の職務は停止されています。
今回の日本の対抗措置に加え、北朝鮮は核ミサイル開発を加速。
迎撃ミサイルシステム=THAADの配備問題で中国との関係も冷え込み、アメリカには、選挙期間中、在韓米軍の撤退を示唆していたトランプ政権が誕生します。
パク・クネ政権は、まさに四面楚歌の状態に置かれ機能停止状態に陥っているのです。

【落としどころは】

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合意からたった一年で崩壊の危機に瀕してしまった慰安婦合意。
この先、“落としどころ”はあるのでしょうか?

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韓国では、日本政府からの10億円の拠出を受けて元慰安婦に対する支援事業が始まっています。これまでに合意成立時に生存していた46人のうち34人、実に7割以上が合意を受け入れる意向を示し、手続きが終わった順にひとりあたり1億ウォンおよそ970万円の現金が支払われています。
私は先月、ソウルでこの事業に携わっている韓国政府の元高官と意見交換する機会がありましたが、この元高官は「合意の撤回や再交渉などありえない。一度支払ったお金を返してもらうというのはあまりに非現実的だ」と述べ、野党の主張が選挙向けの発言に過ぎないと強調していました。元慰安婦の心の傷を癒すための事業が、一定の成果を上げている事を私達は謙虚に受け止めるべきではないでしょうか。

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安倍総理は「日本は10億円をすでに拠出し誠実に義務を実行している。次は韓国がしっかりと誠意を示して頂かなければならない。国の信用の問題だ」と韓国側の対応に不快感を示しました。

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NHKが行った世論調査でも、半数が今回の政府の対応を「評価する」と答え、「評価しない」をはるかに上回っています。

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韓国では日本側の措置に反発して「10億円を返そう」という声まで上がっています。大切なのは「やられたらからやり返す」という負の連鎖に陥らないことです。取り除いたはずの棘が喉に刺さったままでは、2国間の協力はもちろん、日米韓あるいは日中韓の連携にも悪影響を与えかねません。

パク・クネ大統領のスキャンダルに揺れる韓国はある種の興奮状態にあるように見えます。
少女像の設置を支援している若者達も自分達だけが正義であると信じ込み、周囲が見えなくなっているように思えてなりません。今は、合意内容を着実に実施していくことに集中すべきです。韓国側には冷静な判断を、日本側には韓国側の対応をじっくりと見守る心の余裕を求めたいと思います。

(出石 直  解説委員)

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