番組で回答した質問

神戸優秋 さん (小学6年生/女/鹿児島市)

Q.

西郷さんの肖像画は、にせ物といううわさがありますが、本当ですか?

A.

【德永先生】
西郷さんの写真がないということで、どの肖像画が似ているのだろうかと、いつも楽しみにして見ているのですが、上野の西郷さんの銅像をイト夫人が初めて見たときに、「やどん主人は、こげな人じゃなかった」と言っています。東京や大阪から西郷南洲顕彰館に来られる方が、皆さんこの言葉を知っていて、「じゃあ、上野の西郷さんは似ていないのですか?」と質問されます。でも、糸さんが言いたかったのは「主人は人前に出るときに、ああいう普段着では出てこない。主人は、しっかりした服装をしていて、礼儀正しい人なんだ」という意味なんです。顔が似ていないということではなく、服装が適切ではないという意味です。
それから、明治5年に大久保さんが欧米視察に出かけたとき、かっこのよい写真を撮って西郷さんに送ったのですが、それを見た西郷さんは「非常に見苦しい、気の毒でならないから、もう醜態だから、二度と撮るな」と言っています。理由はわかりませんが、西郷さんは写真が大嫌いなようです。

ところで、肖像画の中で、今一番有名なのはキヨッソーネの描いた肖像画でしょう。これはよく言われるように、顔の上半分が弟の西郷従道、下半分が従兄弟の大山巌を参考にしています。それを指導したのは、キヨッソーネを招聘した印刷局の局長・得能良介。西郷さんとは親戚に当たります。こういう生前の西郷さんと親しかった人が指導したので、似ているはずです。実は、このキヨッソーネの肖像画を依頼したのは自分だと、西郷さんの息子の菊次郎さんが回顧録に書いています。菊次郎さんは、一族の写真の中から似ている部分を集めて、「こんな感じで書いてほしい」と依頼しました。できあがりは明治16年。菊次郎さんは「似ている」と言いました。だから、キヨッソーネが一番似ていると思います。そのキヨッソーネの肖像画を土台に上野の西郷さんの銅像ができているはずなので、上野の西郷さんは「似ている」はずです。

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吉本芽生 さん (小学5年生/女/鹿児島市)

Q.

西郷さんが、城山で、最期に「もう、ここらでよか…」と言った時の気持ちが知りたいです。
政府軍に反旗をひるがえした西郷さん。
明治維新の改革に満足していたのでしょうか? 教えてください。

A.

【安川先生】
吉本さん、西郷さんは明治政府で様々な新しい改革を行いました。これは、西郷さんでなければ成し遂げられなかったことだったと思います。
そして、西郷さんが城山で最後に言った「晋どん、晋どん、ここらでよかろう」という言葉。これは、9月24日、西郷さんは城山で別府晋介の介錯を受けますが、その前の5日間、洞窟で過ごしています。この5日間に、西郷さんは、49年という激動の人生を振り返ったと思います。様々な記憶がよみがえったと思います。私は、「ここでよか」の「ここ」は、ただの場所ではなく、一切のピリオド、すべてにおいて「ここでよか」という意味なのだと思います。少し達観も感じます。
西南戦争が思った以上に苦戦した。そのことを西郷さんは、自分は追われる方だったわけですが、「新政府軍もなかなかやるじゃないか」と喜んでいたという話も残っています。「たくましい政府ができあがったな」と。西郷軍が追われれば追われるほど、そういうことを言ったという話も残っています。ひょっとしたら、これからの日本を少し任せてもいいかもしれないと思ったのかもしれません。

【德永先生】
西郷さんは、幕府を倒し、明治維新へと時代を動かしましたが、ともに維新を実現した人たちに望んだものがあったんです。西郷さんには、「命もいらず、名もいらず、金もいらない・・という気持ちで幕府を倒したんじゃなかったのか。ところが、今の新政府の連中はどうだろうか、1000坪、2000坪の元の大名屋敷に住み、洋館を建て、贅沢三昧だ。何か忘れているんじゃないか?」という気持ちがすごくあったんじゃないでしょうか。
西南戦争にしても、「新しい政府が間違ったり行き過ぎたりした場合は、だれかが抵抗しなければならない」、福沢諭吉が『丁丑公論』の中で、そう言う権利があるんだと言うことを書いています。ただ、西郷さんが武力を用いたことについては「未熟な抵抗権」と言ってます。「間違ったり行き過ぎたりした場合には、だれかが是正しなければならない」、それが西郷さんだったのではないでしょうか。

【原口先生】
西郷さんは「四民平等」を達成し、その後、鎮台を作りました。「日本は諸外国から侵略されるかも知れない、そのためには強くならねばならない」という思いでした。その鎮台と薩摩の士族が戦って、最後は負けました。
「もうここでよか・・・」。私は、西郷さんは、将来に、十分に希望を持ってお亡くなりになったんじゃないか、と思います。差別のない平等な日本。百姓兵が日本という国を守ってくれるという思いを持って生涯を閉じられたと思います。

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隈元 妃翠 さん (小学1年生/女/鹿児島市)

Q.

西郷さんは昔の人なのに、とても体が大きい人でしたね。
好きだった食べ物や、どんなものをどのくらい食べてたのか教えてください。

A.

【安川先生】
妃翠さん、西郷さんの身体が大きかったことを良く知っていましたね!
確かに、西郷さんは身長が1m78cm、体重は100キロを超えていたと言われています。
西郷さんは、出された物は何でもよく食べたと言われています。中でも、好きだったのは、うなぎ、豚肉、鹿児島の郷土の果物・文旦が好きだったという記述が残っています。
また、ご子孫が語ったエピソードとしては、西郷さんは特にかるかんが大好きで、かるかんは、出せば出すほどいくらでも食べたそうですよ。 そして、作ってくださるかたには、必ず「美味しいです」と声をかけたという素敵なエピソードも残っています。

【德永先生】
西郷さんは、出された物を、いつも、ちゃんと食べて、好きい嫌いをしなかったそうです。それで、大きな身体ができたんじゃないですかね。

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平山 紗千 さん (高校2年生/女/鹿児島市)

Q.

こんにちは!
坂本龍馬の仲介により成立した薩長同盟ですが、元々険悪だった薩長の関係を緩和させたような西郷さんのエピソードがあれば教えてください。

A.

【原口先生】
平山さん、これは歴史のオーソドックスな課題ですよ。薩長同盟は慶応2年1月21日もしくは22日に成立しました。同盟を結んだのは西郷隆盛と木戸孝允ですね。
西郷さんが、この薩長同盟において功労者であるという点は、以下の点ではないでしょうか。
禁門の変で長州藩は藩兵を御所に向けたと言うことで、朝敵・天皇の敵になりました。それを懲らしめるために、長州征伐を行うことになった時、西郷さんが、その参謀となりました。最初は、長州を徹底的にやっつけるつもりだったのですが、西郷さんは幕臣の勝海舟に会ったことで、考え方をガラッと変えるんです。
勝海舟は「長州を攻め滅ぼしてはだめである。今、日本は、外国から攻められるかも知れない危機にある。そんなときに、国内で長州を滅ぼしてはいけない。内乱になる」と西郷さんに説いたのです。西郷さんも、「長州を滅ぼした後は、結局、薩摩が襲われるかも知れない。よし、ここは戦わずにことをおさめよう」と考え、第一次長州征伐は、長州が謝罪することで結局が着いたのです。これが、翌年、薩長同盟が結ばれる上で、大きな出発点であったと思います。
でも、薩長同盟が結ばれるまでには。いろいろありました。
慶応2年の正月が明けて、長州の木戸孝允たちは薩摩藩の屋敷に入って同盟の話をしようとしました。まず薩摩藩邸、京都の西郷隆盛の屋敷に行って、家老の小松帯刀の大きな屋敷に行って、ずっと接待づくめです。話は全然進まず、とうとう木戸さんが怒ってしまいました。そこに坂本龍馬が現れて一喝したんです。「あなたたちは、こんな長い間、何をしていたのか! 今、メンツにこだわっているときではないでしょう」。
でも、私は、最初は大いに議論したと思いますよ。長州は「朝敵という濡れ衣を晴らしてもらいたい」と思っていた。薩摩もそうしてあげたいと思っていた。そこで、薩摩は「まず、幕府の要求も入れなさい」と、西郷さんが木戸さんに説いた。ところが、木戸さんは「これ以上の罰は受けない。長州だけでも戦う」と物別れになった。その後、長い時間、接待ずくめ。最初から、まったく話をしなかったというわけではないと思います。
この薩長同盟締結のシーンは、来年の大河ドラマ「西郷どん」の中でも、きっと名シーンになるはず。この質問、とても参考になりました。平山さん、ありがとうございました!

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長元 颯真 さん (小学6年生/男/鹿児島市)

Q.

ぼくは今、自由研究で、集成館事業について調べています。
西郷さんは、尊敬する島津斉彬が進めていた集成館事業には関わっていなかったのですか?

A.

【原口先生】
颯真君、集成館事業ってすごいよね。2015年に「明治日本の産業革命遺産」になった世界に誇る事業が、鹿児島で、島津斉彬のもとで行われていたんですね。西郷隆盛は斉彬が最も大事にした家臣なのに、なぜ、名前が出てこないのか? 不思議ですよね。
西郷さんは、政治家・革命家の面が強かったと言った方が良いかも知れません。西郷さんの活躍する場は江戸であり、京都であり、そして鹿児島。これを何度も往復して、日本の国の政治のために活躍しました。そして、斉彬公が、日本が植民地にならないように、すぐれた軍事力、殖産興業という様々な産業を興すための実験をしていたのが集成館事業です。
たとえば、優れた技術者、医学者達が、オランダ語の本とか、英語の本とかを翻訳して、自分たちで反射炉とか製鉄所とか、西洋型の帆船とかを作りました。頑張った人達はたくさんいますが、その中で、先生は,特に八木称平と言う人の名を挙げたいな。集成館事業に関わった医学者で技術者の一人です。八木称平は、医学を長崎で学んで、鹿児島で実践しようとした矢先に若くして亡くなりました。こういうすぐれた研究者達が斉彬の命を受けて、みんなで実験を繰り返し、新しい物を作っていたんです。
そういった軍事力を元にして西郷さんが政治力を発揮していたとなれば、西郷さんは、活動の中で、集成館事業のことも、ちゃんと把握していたと考えられます。
また、西郷さんは、当然、集成館に足を運んでいるはずです。斉彬公が鹿児島にいるときは鶴丸城と集成館にいるので、側近として仕えている西郷さんは、当然、集成館にも足を運んでいたと考えられます。
篤姫が将軍家定にお輿入れするときには、薩摩からたくさんの調度品を持参しました。その一つが薩摩切り子の大きな花瓶でした。それを持たせるのも西郷さんの役割だったんです。当然、「集成館では何を作っているのか? 贈り物になるものはないのか?」と一番関心を持っていたのが西郷さんだったはずですよ。

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匿名希望 さん (小学6年生/男/鹿児島市)

Q.

石について調べています。
島津斉彬公の墓石は、山川石、西郷さんの墓石は、花棚石でした。
桐野利秋さん以外は、ほぼ花棚石が使われていたかと思います。
斉彬公が山川の浜崎太平次と親交があったのも、理由の一つでしょうか?

A.

島津斉彬公の墓は山川石ですが、西郷さんの墓は花棚石ではなく、藤山石という特別な石です。鹿児島市の小野の石です。南洲墓地の墓石は、多くが、たんたど石です。鹿児島市の坂元にのぼっていくところで取れます。桐野利秋の墓だけは赤みがかった御影石です。この石は県内では取れないため、県外産です。常夜灯は花棚石です。
斉彬公と山川の浜崎太平次には密接な親交がありました。これはとても大事なことです。戊辰戦争で活躍する春日丸という軍艦を何万両も手付金を出して買ってくれたのは浜崎太平次です。また、文久2年に薩摩藩が銃を購入する際、浜崎さんは、他の海商たちにさきがけて2万両を調達しました。
戦ったのは兵士ですが、最高にバックアックしてくれたのは浜崎太平次だったんです。

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竹元 慶太 さん (小学6年生/男/鹿児島市)

Q.

西郷南州顕彰館で「西郷さんのわらじ」を見ました。
とても大きなわらじだったのですが、何センチくらいだったのですか?

A.

【德永先生】
慶太君、西郷南洲顕彰館に来てくださってありがとうございます。
実際に資料を見ることによって、資料が語りかけてきます。自分で何かを考えて、それを知ろうと思うことが、歴史を解明する上でとても大事なことなんです。
さて、靴の大きさを言う場合、普通、何センチというサイズで言うのですが、これは靴の感覚です。スリッパの場合は何センチとは言わずS・M・Lで表現しますよね。
わらじの場合は、かなり許容範囲がありまして、なかなか表現するのが難しいです。顕彰館に展示してある西郷さんのわらじは28センチ。たてが28センチというのは、たいしたことが無さそうにも思えるのですが、そのわらじを実際に履いてみると、歩けないくらい大きいんです。横幅をはかってみると13.5センチもありました。私の足の2倍ぐらいもありました。
それから、上野の西郷さんの銅像を見ると非常に面白いことがわかります。上野の西郷さんはうさぎ狩りの服装をしています。そして、銅像がはいている草履は、通常の半分の長さしかありません。これを「足半(あしなか)」と言います。普通の草履では、走ろうと思っても、なかなか難しいのですが、短い足半だと、野山を走り回ることができるんです。昔は運動靴はありませんから、足半をはきました。顕彰館のわらじは足半ではありません。中間的なものかなと思います。今では、上野の銅像の周りに囲いができてしまって、この足半を見ることができません。残念!
そう言えば、わらじに関連した西郷さんの人柄を表す逸話がありました。西郷さんがうさぎ狩りに行くと、必ずと言って良いほど、泊まった宿の主人がわらじを編んでくれたそうです。その日も、宿の主人が、西郷さんのためにわらじを編んでくれました。普通の人よりもかなり大きく作ったつもりなのに、いざ西郷さんがはこうとすると、かなり小さかったそうです。でも、西郷さんは、「悪いのは私の足の方です」と言って、無理矢理はいて出かけたそうですよ。

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池田光希 さん (小学5年生/男/鹿児島市)

Q.

いつも優しい、西郷さんですが、怒る事がありましたか?

A.

【安川先生】
池田君、西郷さんは、いつも優しく、とても慈愛に満ちた人と言われています。若者がやんちゃをしたりした場合でも、優しく見ていたと言う話もあります。たとえば、部下が、撃ってはいけないタイミングで銃を撃ってしまったことがありました。「切腹しておわびします」と謝る部下に対して、西郷さんは「腹を切ったら痛かろうから」とゆるしています。
しかし、そんなやさしい西郷さんでも、怒るときがありました。
その中の一つ。坂本龍馬が新婚旅行で薩摩に来たのは有名な話ですが、実は西郷さんの家にも泊まっています。龍馬さんが寝ていると、隣の部屋から西郷さんと奥さんのイトさんの話声が聞こえてきました。イトさんが「わが家は雨漏りをするので、お客様がいらっしゃると、面目がなく恥ずかしいです」と言うと、西郷さんが「今は日本中が雨漏りをしている時なのだ。我が家だけではないのだ。何を言っているんだ」とイトさんを叱りつけたそうです。龍馬さんは隣の部屋で聞きながら「西郷さんは、やっぱりすごい人だな」と言ったという話が残っています。日頃は本当に優しい西郷さんですが、国家の大事に関わることや、人の道にはずれることなどには、非常に腹を立てたと言われています。

【原口先生】
池田君、でも、奥さんのイトさんに怒ったのは、その1回だけだったと、後年、イトさんが話していますよ。
それから、安川先生はおっしゃらなかったけど、長旅の後、龍馬さんが西郷さんの家のお風呂に入ったとき、イトさんがきれいに洗ったふんどしを準備していたら、西郷さんが怒ったそうです。「この龍馬さんは、日本で一番大事な方なのに、なぜ、新しいふんどしを準備しなかったのか!」と怒ったんです。それに対して、龍馬さんが「いえいえ、これでいいんです」と言ったというお話しもありますよ。

【德永先生】
西郷さんが怒るというのは、強い正義感を表現していると思います。西郷さんを抜擢したのは島津斉彬公ですが、その斉彬公は「自分にはたくさんの家臣がいるが、西郷は大いなる宝である。そして、彼をコントロールできるのは私しかいない」と言っています。「彼は気性が激しいから、彼をコントロールできるのは自分しかいない」と言っているんです。西郷さんという人は、実は『激しやすいんだけど、それを理性で抑えている人』であったと思います。

【原口先生】
そして、決定的なところで怒ったこともあります。私学校の生徒達が火薬庫を襲ったときに怒りました。「しもた! おまえ達はなんちゅうことをしたのか!」。そして西南戦争が始まりました。

【德永先生】
怒ったけど、それを後悔したこともありました。藩の命令で隠れていた奄美から帰ってくるとき、迎えに行ったのは枕崎の船頭さんたちでした。船頭さん達は、使命感で、一生懸命鹿児島に連れて帰ろうとするのですが、風と波にやられて、普通なら2、3日で行けるところを20日ぐらいかかってしまいました。国家の大事に「一刻も早く鹿児島に帰りたい」と思っている西郷さんは、船頭さんを切るぐらいの勢いで怒りました。でも、鹿児島に着いたとき、西郷さんは「自分は気が立っていた。大変すまなかった」と謝り、お礼に刀を船頭さんに贈ったそうです。

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大木優華 さん (小学5年生/女/鹿児島市)

Q.

西郷さんは、なぜ犬を連れているのですか?

A.

【德永先生】
大木さん、西郷さんの連れていた犬の名前は、一般的に13~15匹の名前がわかっています。その中で、よく知られているのがツンです。西郷さんはツンをとても大事にしたんですが、西郷さんが亡くなったのは1877年、罪が許されて位をもらったりしたのが1889年、銅像ができたのは1898年です。そうすると、西郷さんの銅像を造るときには、一番大事にしたツンは亡くなっていて、モデルにすることができませんでした。
そこで、東京で薩摩犬を飼っている人の犬をモデルにしました。名前はサワです。ちなみに、ツンは雌犬、サワは雄犬です。だから上野の銅像の犬はたくましく見えます。しかし、気持ちはツンなんです。
ところで、西郷さんの人生には、必ず犬が関わっています。
西郷さんは西南戦争にも犬を連れて行きました。明治10年8月17日の夜に薩軍は解散するのですが、その時に連れていた2匹の犬は可愛岳で放します。西郷さんが鹿児島に帰ってきて亡くなるのは9月24日なのですが、このうち、クロという犬は、その前日に鹿児島の元の飼い主の所に帰ってきたんです。すごく感動的な話ですよね。
先ほど先生たちから、ドイツ人医師のホフマンが、西郷さんの病状を良くするために、朝夕の散歩や狩りをすすめたという話が出ましたね。実は、西郷さんにとって、狩りは遊びではありません。西郷さんは、狩りをする場合、必ず小高い丘に上がります。そして図面を作ります。そして、どこで犬を放てば、どこに獲物を追い詰められるか考えていたんです。「狩りの現場は戦場であり、犬は戦士である」という考えからも犬を大事にしていたんです。
西郷さんは小さい頃に右腕をケガして剣術はしなかったと言われていますが、西郷さんが大事にしたのは兵法です。集団と集団が戦う場合、いかに戦うか、そして、いかに、自分たちはダメージを受けずに相手に勝つかということを、狩りをしながら西郷さんは真剣に考えていたんだと思います。

【原口】
大木さん、上野の西郷さんの銅像の犬は、もうツンが亡くなっていたので、他の犬を参考にしたということでしたが、桜島産の薩摩犬という犬だったようです。
上野の西郷さんの銅像を造った人は高村光雲という有名な彫刻家ですが、犬を作った人は、実は別の人です。動物彫刻の専門家の後藤貞行という人です。
その後藤さんと高村さんが大げんかをしました。西郷さんの横に桜島産の薩摩犬をそのまま置くと小さくて目立たないので、後藤さんは、大きく作ろうとしました。それに対して、高村先生は「芸術はそのまま作るべきだ」と芸術論争になったそうです。結局、「そうじゃない、私の犬を作るんだ!」と主張した後藤先生の考え通りの犬が、今、西郷さんに連れられています。

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竹元 優太 さん (小学6年生/男/鹿児島市)

Q.

西郷さんは、名前が何度も変わったのに、なぜ西郷隆盛と呼ばれる?

A.

優太君、名前というのは、なかなか難しいですよ。普通、名前というと、通称と実名と、西郷さんが南洲という言葉を使っているように、号というものがあります。西郷さんの場合、あわせると20近くありますよ。
西郷隆盛は実名です。実名は、西郷さんの場合、隆永とか武雄とか隆盛とかがありますが、本当は「隆盛」というのは、西郷さんのお父さんの名前なんです。
というのは、新政府ができた後、西郷さんは、功労者として明治天皇から「正三位」の位を授かります。明治政府は書類にその名を記すため西郷さんの本名を大至急知る必要がありました。しかしその時、西郷さんと連絡がつかず、名前を届けたのが、西郷さん本人ではなく、吉井友実という友人。間違って、お父さんの名前の「隆盛」で届けてしまいました。
それ以降、「隆盛」が西郷さんの「正称」となりました。そのため、今、私たちは、西郷隆盛と呼ぶことになったのです。
ちなみに、西郷さんは、藩の命で奄美大島に隠れていたときには菊池源吾と名乗りました。これは、西郷家のルーツが熊本県の菊池郡にあったからです。西郷さんは、奄美で生まれた子どもたちに菊次郎、菊草と、名前に菊を使っています。

【原口】
菊は天皇家の象徴の花です。ですから、西郷さんは尊皇家であったということも示していますよ。
ところで、西郷さんのお父さんの名前も隆盛ですから、とてもまぎらわしいですよね。そこで、お父さんのことは「吉兵衛」と呼ぶことにしています。

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湯川 暖太 さん (小学5年生/鹿児島市)

Q.

西郷さんが最初についた藩の役は、どんな仕事でしたか?

A.

【安川先生】
湯川君、とても素晴しい質問です。最初にどんな仕事をしたのかは、その後の西郷さんの人生に大きな影響を与えています。西郷さんが初めて就いた仕事は「郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)」と言う仕事でした。具体的に言うと「農民が、ちゃんと年貢をおさめているかどうかを、農村をまわって調べて歩く仕事」でした。
この頃、厳しい、重い年貢に苦しむ多くの農民たちと触れあっています。西郷さんは、農民達に、常に優しく接して、農民たちに対する愛情をどんどん大きくしていきました。
お米があまり取れない不作の年などは、なんとか助けてあげたいと、藩に対して提案もしたそうですよ。

【德永先生】
西郷さんは、実は、農業のプロです。農業はとても大事なものです。島津斉彬公も「藩の基本は農業だ」と言っています。
西郷さんは、農村をくまなくまわりました。凶作のときには、「年貢をまけたらどうか」と藩に提案もしますが、なかなかうまくいきませんでした。西郷さんの上司は素晴しい人でした。西郷さんの意志をよくくんで、西郷さんと同じ気持ちになって、藩に意見をしました。迫田太次右衛門利済という人です。迫田さんは、西郷さんの意見を尊重して藩に訴えたのですが、藩がそれを取り上げなかったために、憤慨して、役人をやめてしまいました。迫田さんのような正義の上司に仕えたことが、西郷さんにとってはとても良かったのではないでしょうか。

【安川先生】
西郷さんは、この仕事に、斉彬公に出会うまでの10年間ぐらい就いていました。

【原口先生】
10年間も農民たちと接して、いわゆる下積みをしていたわけですから、斉彬公が知りたいことを一番良く知っていて、一番意見を述べる家臣が西郷さんだったと言う理由が良くわかりますよね。

【安川先生】
実は、この頃、若い西郷さんが、農民を助けるために灌漑用の池を作っています。今でも、いちき串木野市の羽島に残っています。万福池という池です。近くには、足跡のようなものが残る大きな石もあります。「西郷隆盛のあしあと」と呼ばれています。

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奥 隆彦 さん (小学3年生/男/鹿児島市)

Q.

西郷さんは、韓国とどうしたかったのですか?

A.

【德永先生】
西郷さんを語る上できわめて大事なことですね。明治6年の政変に関連しています。奥君は「征韓論」と言いましたが、私たちは「遣韓論(けんかんろん)」と言っています。西郷さんには、自分が使節として朝鮮に行って、日本が近代化したように韓国にも近代化してほしいと伝えたいという思いがありました。また、当時怖い国だったロシアの南下策をどうにかしたい。そのため、ともに近代化して、強い国に対抗しようと言う考えもあります。ですから、朝鮮に開国してほしいということが一つ。
また、朝鮮半島には、倭館というところに日本人が住んでいました。そこの日本人の安全を守りたいということも理由としてあります。

一方、見落としがちなのは、朝鮮の方から日本をどう見ていたかということです。日本側は、「我々は開国した唯一の近代国家である。革命を行った」と思っているのですが、朝鮮から見ると、ある意味「日本は開国はしたが、軟弱なところがあるし、開国のあり方に対して疑問もある」と考えていたのです。
だから、西郷さんは、礼儀を尽くして「開国すればともに近代国家になれる」と説こうとしました。しかし、残念ながら、西郷さんに対する対抗勢力の人達の行動と西郷さんの考え方が一致しなかったのです。結局、西郷さんが論に敗れて、鹿児島に帰ってくるということになりました。
ちなみに、政界全体を考えるときには「征韓論」です。西郷さんが主張しているのは、純粋な気持ちで、純粋に相手を考える「遣韓論」。西郷さんには「戦いをしてはいけない、お互いを理解するためには話し合いだ」という考えが基本にあると思います。

【原口先生】
西郷さんは話をしに行こうとしたんです。もし開国しなければ、列強は開国を要求しますよね。そうすると戦争になるかもしれません。戦争によって、条約を外国と結んだ場合は、ほとんど植民地同様の不利な条約を結ばされることが、中国やベトナムを見ていてわかっていました。西郷さんは、南京条約のように、領土を奪われ、まったく清国の主権を認めないような条約を結ばされることになるよと説得に行こうと思ったのではないでしょうか。自分を使節として派遣してくれと思ったのでは。だから、私も、「遣韓論」というのが西郷さんの気持ちであったのではないかと思います。

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大山友輔 さん (小学3年生/男/鹿児島市)

Q.

西郷さんの一番の仲良しは、だれだったのですか? 僕は大久保利通だと思うのですが?

A.

【原口先生】
大山君と同じように、西郷さんにも、お友達がたくさんいましたよ。
大久保利通は、西郷さんよりも3つ年下ですけども、同じ目的を持って明治維新を成し遂げた親友中の親友だと思います。
さて、薩摩藩のような大きな組織を挙げて明治維新をやりとげるようなときには、人々をつなぐ役割の人がいないとできません。西郷さんや大久保さんのような下級の武士達を引き上げて、藩主や藩主の父親の久光公と歩調を合わせる藩の役職のことを家老と言います。2008年に大河ドラマ「篤姫」が放送になった時、スポットライトを浴びたのは若き家老の小松帯刀でした。薩長同盟は、小松さんの京都の屋敷で結ばれました。
でも家老は一人ではありません。実は、西郷さんの親友の偉い家老がいます。桂久武です。あまり資料は残っていないのですが、慶応3年、戊辰戦争という大きな戦争が始める前に、桂久武は自分の家来たちに霧島山麓を開拓させて、田んぼをたくさん作りました。
これから戦争を行うというときに家臣に霧島山麓を開拓させるということは、西郷さんも桂さんも、「その後、廃藩置県によって武士階級がなくなったとき、武士はどうやって生きていくのか?」ということを、すでに考えていたはず。真っ先に西郷さんのそんな気持ちを理解して霧島山麓を開拓させた桂久武こそ、本当の友人ではないかと思います。
農業による国興し、つまり、刀を鍬に持ちかえて新しい国作りをしようじゃないか、という同じ志を持っていた人が桂久武ではないか、と思うんです。桂久武は、来年の大河「西郷どん」に向けて一押しの人物です!

【安川先生】
西郷さんは仲良しの人たちとは、魂と魂のつながり合いみたいに深いつながりになっていたと思います。西郷さん自身が話したのではないのですが、勝海舟という人が「私こそ西郷の親友」と言っています。そのように、「私こそ西郷の親友」と思っていた人は一杯いたのではないでしょうか。

【德永先生】
私も、原口先生と同じく、一押しは桂久武です。なぜかというと、西郷さんが、西南戦争に出発する前日にあいさつに行っています。ところが、次の日、桂さんは、見送りに行ったはずなのに、西郷さんに付いていくんです。
それに負けないのが勝海舟。勝海舟の夫婦墓が東京の洗足池のほとりにあるのですが、その隣に、墓に負けないくらいの大きさで西郷さんを祀ってくれています。
勝さんも「自分が一番西郷に通じている」と言っています。
それから、西郷さんが沖永良部に配流になっていた時の土持政照。罪人であった西郷さんのめんどうをみました。義兄弟の契りも交わしています。西郷さんのために、外牢を屋敷牢に改築しています。

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谷川智亮 さん (小学4年生/男/鹿児島市)

Q.

西郷さんは、おなかがゆるかったというのは本当ですか?

A.

【原口先生】
これは、大変大切な問題ですよ。でも、谷川君、よく、お腹がゆるかったことを知ってましたね。
古い手紙が残っているのですが、その中に、西郷さんは、大事な時になると、十数回もお手洗いに行って、くだしていたと書かれています。そのため、西郷さんは、体調が悪くて、ちゃんとした政治的な判断ができなかったのではないかと言う研究者もいますが、私は、そうではないと思います。
西郷さんが、叔父さんの椎原さんに手紙を出しているのですが、明治6年の5月の初旬から病気になって、東京にある、弟の西郷従道の別荘で病気の療養をしていたのですが、6月6日には、明治天皇が西郷さんの容態を心配して、ドイツ人の医者のテオドール・ホフマン先生が派遣されました。西郷さんは、食べ過ぎだったんです。それでどんどん太って、内臓とかいろいろなところに負担がきて、便秘になってしまいました。ホフマン先生は、これではいけないということで、下剤を処方しました。この下剤が、とても良く効く下剤だったらしいんです。

【安川先生】
ひまし油ですね。

【原口先生】
ひまし油という下剤を、ホフマン先生が処方しました。西郷さんは言うことを良き聞く人だったから、ひょっとしたら、飲みずぎたんじゃないかな?
それから、少しずつ健康を取り戻しました。脂っ気のあるものを抜いて食事療法をしたり、麦のご飯を食べたりしたそうです。また、剣術の稽古をしたり、この頃から、犬を連れて散歩したり、狩りをしたりしているのも、健康のためでしたっけ、徳永先生?

【德永先生】
ホフマン先生が「運動をしなさい!」ということを言ってます。脳梗塞で血管がつまることを心配していたみたいです。ですから、脂分を取らないように、ということが一つ。そして、太っているので、下剤を使ってやせましょうという意味があるみたいです。

【原口先生】
最初に「とても大事な質問だ」と言いましたね。明治6年と言えば、「征韓論」と言って韓国との国交の問題をいろいろ話をしていた時です。「大事な会議をするときには前もって知らせてくださいね」という西郷さんの手紙が残っています。そのときは、下剤を飲まないで行かなきゃいけないからね。もし飲んでしまったら、席に座っていられなくなるから、というわけです。国の将来をも左右するほど、西郷さんのおなかがゆるかったということは、大問題だったんです。

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