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「没後15年 氷室冴子をリレーする」

  • 2023年6月16日

第1回 あなたがいたから、私は生きてこられた ~作家・町田そのこ~

ことし6月で、亡くなってから15年になる、岩見沢出身の作家・氷室冴子さん。 かつて読者だった作家や、友人、編集者のインタビューリレーから、氷室冴子さんの作品が放つ力と、人生をたどります。第1回は、作家の町田そのこさんです。
※取材の様子は、6/23(金)午後7:30から「北海道道」で放送します(NHKプラスで全国からご覧いただけます)

町田そのこ(まちだ・そのこ)さん
1980年生まれ。福岡県在住。2017年、『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。2021年、『52ヘルツのクジラたち』で本屋大賞を受賞。他の主な著作に『星を掬う』『宙ごはん』『あなたはここにいなくとも』など


―氷室さんの作品との出会いから、教えてください

町田そのこさん(以下、町田)「私の母がすごく読書好きで、その母の本棚にあったのがそもそもなんですけど、私自身は小学校3年生ぐらいまで少女漫画とか児童書ばっかり読んでたんです。母は宮尾登美子さんや山崎豊子さんなどを読んでいて、すごく真剣な顔で読んでいるときに話しかけたら「今いいとこだから待って」って言う人だったんです。ある日、「お母さん、そんなにその小説っていうものは面白いの? 挿絵もないし」って尋ねたときに渡されたのが『クララ白書』だったんです。「挿絵もちょっとは入ってるし、ここを導入にしてごらん」という感じで渡されました。それならと読んでみるとそこからすごく夢中になってしまって。確かその日のうちに読み終えています。次の日「これ、続きはないの?」と訊いたら「『ぱーとⅡ』があるよ」と言われて『ぱーとⅡ』を借り、また翌日「もっと続きないの?」と言ったら、『アグネス白書』を借りることに。そこから、これまで全然興味がなかった母の本棚が輝いて見えたんです。母は氷室冴子さんも好きで、『恋する女たち』とか『シンデレラ迷宮』もあったのかな。最初は借りていたんですけど、だんだん自分の机に並べるようになり、母も、私がそれだけ気に入ったんだったらって譲ってくれてというのが出会いですね」

―何に、それほど虜になったのでしょうか?
町田「『クララ白書』の主人公の「しーの」に夢中になったんです。桂木しのぶっていう女の子に惚れてしまった。「ああ、私も彼女みたいな友達が欲しい」って。女子校の女子寮が舞台の話ですが、彼女の生活ぶりや、彼女を取り巻くいろんな人たちの人間模様があまりにも眩しくて、私もその一員になりたいって思ったんです。すると、どうしたら彼女たちと一緒にいられる自分になれるだろうかと考えはじめるようになって、私はもっと頑張らなきゃいけないとか、しっかりしないといけないとか、いい意味で励まされるようになっていきました。『クララ白書』は、私の中では昔の親友の話をしてる感覚です」

―ご自身が小さい頃、周りの友人たちとの関係がうまくいかなかったことを、これまで語っていらっしゃいます。そのご経験との関わりも、可能な範囲で教えていただくことができるでしょうか?
町田「小学校の高学年になった頃にいじめにあいました。男の子からは、汚物というか、ばい菌扱いされて、「もう、おまえこっち来んな」と言われ、女の子は遠巻きに「やめなよ」って言うだけで、一緒にいてくれる人がいない、すごく孤独な時期があったんです。そのとき、ランドセルの中に『クララ白書』や『アグネス白書』を入れていて、一人の休み時間のときにずっと広げて読んでました。今の自分がどれだけ情けなくても、本の世界を開けば登場人物たちはちゃんと友情を成り立たせて日々を楽しく過ごしていて、桂木しのぶは生き生きしている。「大丈夫、私は大丈夫、この人たちに見合う人間になろう」と自分に言い聞かせるように読んでいました。教室に居辛いときは、トイレの中で立ったまま本を読むこともありました。私は成長がゆっくりだったので、今改めて考えると、いつもどこかぼんやりしていたのがいらいらさせてしまったんだろうなと思います。一度本のことを考え出したらそのことしか考えられなくなる、ということもしょっちゅうでしたし、そういう意味では、私にも問題はあったのかもしれません」

―そんなことはないと思うのですが…
町田「でも、胸を張って悪くなかったとは言えません。当時、数人の女の子から、「あなたが悪いと思うよ」って言われたんです。「スカートにちゃんとアイロンかけておいで」とか「くちゃくちゃのハンカチ持ってきちゃ駄目だよ」とか。それは正しいことだし、言われたときは理解していたつもりなんですけど、でも、できなかったんです。どうしてだか、あのころは全く。そんな感じだから、己のだらしなさが何でいじめにつながるのかってことも分かってなかったんです。「こんなことで?」ってどこかで思っていた。だって、ハンカチくしゃくしゃだとしても洗ったものだし、洗ってたたみ方が悪かっただけのものだし、誰に迷惑かけているわけでもないし」

『クララ白書』をはじめ、町田さんにご自身の本棚からお持ちいただいた氷室作品


―いまは、当時のことを言語化できるようになっていらっしゃると思うんですけど、当時はそんな状況じゃないですよね?

町田「そうですね。でも、「大丈夫、私にはこの物語があるし、いつか私にもこんな友達が現れるはず、実際に見つかるはず」みたいに自信を持っていました。氷室作品に触れていると友情って絶対どこかにあるって信じられたんですよね。そのためには、私が友達になれる人に出会ったときに恥ずかしくない自分でいなきゃいけないって考えていたので、ぐれたりとかそういうことがなく、真っすぐ生きようみたいな思いがあったんです。学校生活で怖い目に遭ったり、悲しい目に遭ったりしたこともあって、学校行きたくないっていう日もあったんですけど、そんなときに限って新刊が出るんですよ。「あ、氷室さんの新刊が出る、そのために来月まで頑張んなきゃ」って思うと、もう楽しみで楽しみで仕方がなくて。そして、これまでの作品を読み返して、自分の中で今後の展開を勝手に想像する、というような遊びをしていたので、気に病んだり、悩む暇がなかったっていうところもちょっとあるんです。大人になった今振り返ると、それだけ夢中になれる作品がコンスタントに生み出されていたことが、私にとって本当に生きる理由になってたんじゃないかなと思います。あの当時、氷室さんの作品以外にもたくさんの本を読んで、たくさんの作家さんの作品に触れたんですけど、自分が学校に持っていって、つらいときに読むのは氷室さんの作品だったんですよね。私、いっとき『なんて素敵にジャパネスク』の自分の好きなシーンを暗唱できたんですよ」

―いまはもう覚えてらっしゃらないですか?
町田「もう、ちょっとね、だんだん老化でね(笑)、無理なんですけど。学校の授業中や昼休みに本が読めない状況だったりしたときとかでも、物語を思い返して楽しんでいました。すごく氷室作品の文章が沁み込んでいたので、今考えれば、それもたぶん作家になるための養分になったのかなって思います。もちろん、あのときはそんな未来があるなんて想像もつきませんでしたけど」

―いじめられたりすると、自分の何か存在価値がわからなくなるというふうに…
町田「「私なんて」という気持ちは確かにあって、今でも自己肯定感は低いんじゃないかなと思います。でも同時に、自分の好きな登場人物たちに恥ずかしくないようにっていう気持ちも、ちゃんとあるんですよね。また、氷室さんにお会いすることはできなかったけれど、いつか会えたときに胸を張れる自分でいたいという思いはずっと持ち続けてきました。そうそう、小学生の時から私の夢は作家になることだったんですけど、本当は夢にはもうひとつ先があって、氷室さんにお会いして、「私はあなたの作品でここまで来れました」って伝えたかったんです。自分の中では理想のシチュエーションがあって(笑)、対談方式で氷室冴子さんと、私が「新人作家の何とかです」みたいな感じで対談して、「あなたの本で私はこんなに大きくなりました」と伝える。そこまでが私の夢のワンセットだったんですよね」

―『クララ白書』では、どのシーンが好きでしょうか?
町田「やっぱり度肝を抜かれたのが、レオタードを着てみんなでドーナツを揚げに行くシーンです。学校の厨房に忍び込んでドーナツを揚げるっていう、何かちょっとできないだろうっていう、想像もできない試練が主人公たちにあって、レオタードを着て女の子3人で揚げに行って、成功して、盛り上がって、みんなに「おめでとう」って言われるんです。その女子校のノリというか友情のありようが、すごく楽しかったんです。なるほど、友達同士ってこんなふうに盛りあがれるんだとか、自分が駄目なところをこんな風にフォローしてくれるんだとか、私にとって友情のルールとか友達関係とはこうあるべきだみたいなのは、たぶんここから刷り込まれてると思います。あと、みんなあだ名ついてるじゃないですか。「しーの」って呼ばれたり、「マッキー」って呼ばれたり……それがすごくよかったんですよね」

―「しーの」に対して意地悪をする後輩がいて、その後輩に対する「しーの」の接し方が好きなんですよね?
町田「そうなんです。嫌がらせをされるじゃないですか、後輩の子に。その後輩を「しーの」は、ただ「いいのよ、いいのよ」って包容力で許すとかではなく、ちゃんと向き合って怒る。でも理解もしたい。怒るけど、「何であなたはそういうことをするの」って、向き合おうともする。「怒る」と「嫌う」は違うんですけど、「しーの」の怒るは、向き合っているからこその怒りで、その怒りの先にあるのは、理解したい、私でも分かりたい。うまくいかなくて、「やっぱりもう無理」と言ったりしつつ、最後はちゃんと理解して、「でも、そういうやり方はよくないよ」とも言える、これは理想の付き合いじゃないかな。私の場合は、もう嫌になったら、「怒る」イコール「嫌われる」でした。それで、「逃げる」とか「反発する」とか、そういう付き合い方しかできなかったんですけど、怒ってから理解する方向にエネルギーを向ける人付き合い、何か自分にとって理不尽な目に遭ったときの人との向き合い方が、すごくいいなと思ってました。いまでも、やっぱり読み返したら思います。人って、特に年をとるとそうなのかもしれないですけど、簡単に見限ってしまうんですよね、「あ、やめとこう、離れておこう」とか。くくりが大きいかもしれませんが、いまの時代は特に顕著じゃないかなと思うんです。SNSで嫌いな発言をしたら、「うわ、この人、こういうこと言う人だったんだ」って逃げちゃう。呆れて、もうそこで終わらせてしまう。向き合うとか、相手がどうしてこういうことをしたのか理解するためにもがくことが、なかなかないような気がしてるんですけど、この『クララ白書』を読むと、「いや、こういうことが大事だよな」とか、自分がそうありたいと思っていた若い頃に立ち戻れる感じもあります」

―登場人物の生き方に影響を受けられたんですね?
町田「氷室作品の登場人物の、特に主人公って、こけても自分の足で立ち上がるんですよ。ほかの作品をくさすわけではないですが、「いつか王子様が手を差し伸べて助けてくれる、救い出してくれる」っていうものではなく、王子様がいたとしたら、王子様の手を引っ張って、「こっちよ」って走ってくれるのが氷室作品なんです。「立ち上がれない、もう無理」って思い悩んでも、絶対みんな必ず自分の足で立ち上がっていく。誰かに立ち上がらせてもらうことや、「誰かの手で救われました。ありがとう」がないんですよ。だから、私は、彼女たちみたいに強くなりたいって思ったんですよね。何があっても、こけても自分で立ち上がるし、ケガしても自分で包帯巻いて走っていくし、そういう強さに憧れましたね」

―氷室さんの描く友情のありようとは、どういう性格のものだったでしょうか?
町田「ただべたべたくっつくものではなくて、悪いことをしたときに相手を責めることもするけれど、同じくらい相手に寄り添いもする。手を差し出しはするけれど、自分から引っ張り上げるのではなく、相手が立ち上がるのを待つ。友情の正しい在り方の一つを、真正面から描いていると思います。氷室さん自身が、友情をすごく大事にされる方なんですよね。エッセイを読んでいただいたら分かると思うんですけど、女友達に対する、久しぶりに会ったときの淋しさであったり、「あなたはそういう人じゃなかったんじゃない」とかっていうズレへの哀しみがある。うまく言い表せないんですが、彼女が友情をとても大切にしていたからこそ、読み手の心を打つのではないでしょうか」

―現実に友達という存在がいない状況や、何かあれば切断してしまうような時代のなかでは、そういう人との関係の在り方を教えてくれる場所があることって、大事ですよね。
町田「大事ですね、本当に。私、『宙ごはん』っていう作品の中で、どうして本を読むのかっていうくだりを書いたことがあって、「本の中に自分の求めている答えがあるんじゃないかと思って読んでいる」っていうことをある人物に語らせているんですけど、私自身、氷室さんの作品の中から、自分の中の、こうじゃないかっていう答えを導き出していたような気がするんです。友達に対する態度はこれで合っているのかとか、トラブルのときにどうするのが最善なのかとか、心が折れそうなときに立ち上がれるってどういう気持ちなのかとか、私の中では本当に教えられることがすごく多かったですね」

―ほかの作品にはない特別さがあったんですね?
町田「ありました。なぜかは、分かんないんですよ、自分でも。ほかにもいろんな作品に触れましたし、面白くて、それこそ発売を楽しみにした本もあったんですけど、でも、自分が過去を振り返ったりすると、氷室さんの作品しか残ってないんですよね。ものすごい数の本を買ってたんですけど、子どもの頃から自分の本棚にずっと残しているのは氷室さんの作品だけです」

インタビューは、町田さんの地元、北九州の市立文学館で行った


―作家になられたきっかけも氷室さんだということですが?

町田「氷室さんの作品で、小説ってすばらしいなと思った小学校の頃から、「作家になりたい」と言ってたんです。たぶん、「将来の夢は」と書く欄には、どれにも「小説家」って書いているはずです。実際、高校生ぐらいまでは自分でノートに設定を書いたり、小説もどきみたいなのを書いたりしてたんですけど、理美容学校に進学して、その学校生活が忙しくて、小説を書く暇なくなっちゃったんですね。本当に毎日に追われていて、そうこうするうちに結婚とか出産とかっていうことがあって、「そういえば私は小説家になりたいっていう夢があったな」くらいの感覚で、28歳くらいまで生きてたんですけど、ある日、新聞に氷室冴子さんの訃報が出て、頭が真っ白になったんですよ。私の夢、完全にもう無理じゃないかって。そのときに、私、もうこのショック一生引きずるなって思ったんです。死ぬときまで、夢を何一つかなえられなくて、もう何の取り柄もない、「小説家になりたいという夢はあったんだよ」って気持ちよさそうに言うだけの、田舎のおばあちゃんで死んでいくのかなと思ったら、「小学校の頃の自分が、今の自分見たら、絶対怒る」みたいな感覚があって。そこから、もう氷室さんには二度と会えないけど、もう一回だけ、小説家になることだけは諦めずに、もう一回だけチャレンジしてみようと思って、書き始めました」

―作家になることそのものより、作家になることを諦めていた自分に対する感覚でしょうか?
町田「そうですね。あれだけ小説に助けられたのに。結局、私はお礼が言いたかったんでしょうね。「ありがとうございます、あなたのおかげで挫けずやってこれました」っていう手段が小説家だったのかもしれない。それくらい、氷室さんにお礼を言いたかった。それを叶えられなかったのはただただ、自分のだらしなさと怠惰だなと思うと、説明しようのない恥ずかしさみたいものを感じてしまって。せめて作家にだけはなろう。目指そうと決めました」

―現実には、たぶん子どもの頃の夢を実現できない人のほうが多いし、それでも、そういうなかで現実と折り合いをつけて生きていくというのは立派なことですよね。そこで一歩踏み出せるというのは特別なことだと思います。
町田「よく、「作家になれなかったら、どうしていましたか?」と聞かれることがあるんですけど、死ぬまで書いてたと思うんですよ。なれなかったとしても。そこで諦めてしまうと、死んだときに同じ後悔を絶対にしてしまうから。「頑張り続けたけど、なれなかった」っていったら、納得できる気がしました。頑張らずに後悔するのだけは嫌だし、そして氷室作品の登場人物だったらそうするんじゃないかなと思ったから、諦めるとかやめるってことは全く考えてなかったですね。たまたま思いがけず早くデビューさせていただけましたけど」

―作家になられてから、氷室さんにご挨拶に行かれたということですが?
町田「デビューのときの授賞式で、「本当に、私がここまで来れたのは氷室冴子さんのおかげです」っていうスピーチをしたんですけど、会場に来ていた編集者さんのなかに氷室さんと一緒にお仕事をした方もいらっしゃっていて、そういう方たちから「今、ご本人が生きてらしたら、あなたのデビュー喜んだと思う」と言われて、すごくうれしかったんですよね。その後に、氷室さんのお墓が早稲田にあることを知って。なんとなく、「まだ行くタイミングじゃない、行くタイミングじゃない」と思っていたんですが、デビュー作を上梓したときに、「今なら行けるんじゃないか」と思って行きました。お墓参りなんですけど、あんなに心臓がどきどきすることってないですね。前の日すごい飲み過ぎてて(笑)、まだ二日酔いだったんですけど、ふらふらになりながらお寺に行き、泣きながら花を生けました。お墓にサインが彫ってあるんです。お守りだと思って、写真を撮らせてもらって、時々眺めてます」

初めて氷室さんのお墓参りに行ったときに、実際に町田さんが撮影されたお写真


―お子さんもいらっしゃって、書き始めるには、相当なエネルギーが必要だと思いますが、どうやって執筆されていたのでしょうか?
町田「当時、上の娘がすごく夜泣きが激しくて、毎晩寝不足だったんです。子育てをすることに対しての不満があったわけではないんですけど、どこか追い詰められていました。夜泣きのお世話をして寝不足だし、社会と関わってないし、意味の分からない焦燥感みたいなものがあったんです」

―社会と関わっていない、ですか?
町田「外に出て人と話したいとか触れ合いたい、もっと言えば仕事がしたいとは思ってました」

―当時、仕事はされていなかったんですか?
町田「子育てに注力して専業主婦みたいなことをしていて、すごく手のかかる子でわりと病弱でもあったので、もう家に籠もりきり、買物以外出かけないこともよくありました。そのせいか、心が不安定なときも時々あったんです。でも、「よし、作家を目指そう」と決めてから、変わりました。まず、当時流行り出していた携帯小説だったら私も入りやすいと考えました。あの頃はガラケーを使っていたんですが、夜泣きする娘を抱きながら、ガラケーで執筆を始めたんです。布団に寝かすと起きる子だったので、毎晩肩に抱えて、もう片方の手でガラケーを使って小説を書いていく。そうしたところ、夜泣きが全然苦にならなくなったんです。それまではだらだらやってた家事も、「早く空き時間を作って小説書きたい、さっき書いたシーンをもうちょっと進めなきゃ」と前向きに考えるようになった。私は夢をもう一度取り戻したことによって、毎日が楽しくなったんです。「頼りなかった背骨がちゃんと真っすぐ伸びたな」と感じて、そして毎日が華やかになったんですよね。携帯小説って、極端な話、更新したら5分後にもう感想をもらえたりすることってあるんです。「面白かったです」とか、「泣けました」とか。「漢字が多い」とか、「字が詰まり過ぎて読みにくい」とか、そういう感想もあったんですけど、そんななかで、「更新楽しみにしてます」とか、「続き待ってます」という感想もいただくようになってきて、「あ、私、誰かとつながれてるんだなあ」という喜びもありましたね」

北九州・小倉の書店には、店頭に町田さんの著作が並んでいた


―ご自身の作品と、氷室さんの作品では、子どもが重要な登場人物である共通点はおありだと思うのですが、たとえば主人公の年代もまったく違います。氷室さんと共有されていることは、おありでしょうか?

町田「共有とは違うんですけど、幼いころの私は、氷室さんの作品を読んで、「明日も頑張ろう」と思って毎回本を閉じていたんです。「明日も頑張ろう、「しーの」たちも頑張ってるんだし、私も頑張ろう」というように。毎日のように背中を押されていたんです。だからこそ私も、読み終わった後に「明日も頑張ろう」と思ってもらえるものを書きたいと思っていて、そこだけは通してるつもりでいます。この間、「町田さんの本をかばんに入れて学校に通います」という内容の手紙をいただいたんですが、「昔の私と一緒だ」と感じて、本当にうれしかったです。私が氷室さんからいただいたものの欠片を、次の世代に届けられたんじゃないかなって思えました。私が氷室さんから受け取ったと思っているものを次の人たちに渡していけるものを書きたい、バトンを繋いでいきたいという気持ちは、おこがましいんですけど、常にあります」

―氷室さんは、ある時代以降、作品をほとんど発表されなかったこともあり、親しんでいない世代の方も多いと思います。たとえば、いまのティーンエージャーの方たちが読んでも通じるものがあるでしょうか?
町田「通じないはずがないです。確かに、携帯もない時代です。でも古さはないんですよ。だって友情とか愛情とか学校の先生、先輩、後輩に抱く感情って、年代が変われば変わるわけじゃない。そこに抱く感情や思いは不変だと思います。使うツールが変わってきたからシチュエーションも変わるだけで、そこに流れている感情とか心の持ちようっていうのは、変わらない。いまの若い方たちが読んでも、「これは私のための物語だ」と受け止めると思いますね」

町田さんは、今後も生まれ育った北九州を拠点に執筆を行っていくという


ー氷室さんは、エッセイのなかで、いまよりも女性が生きづらい時代において体験されてきたことを、率直に記されています。女性の作家さんが置かれていたつらい状況は、驚くとともに、いまにもつながっているとも思いました。
町田「女性作家、特にあのときに少女小説って言われていた、ティーンに向けた女性の少女小説作家は、とても生きづらい時代でした。だからこそ氷室さんは、声を上げなきゃいけないって書いてくださった。そうやって先人たちが声を上げ続けて文章にしてくれたからこそ、いま、私たち女性作家が、伸び伸び筆を走らすことができるんだなと思います。子どもの頃はその問題の本質が分からなくて、何か難しいこと言ってるな、みたいな感じだったんです。大事なところを全然つかみ取れていなかった。でも大人になり、作家になった今だからこそ、彼女が道をならしてくれていて、私たちはその道を歩いていることができていると感じるようになりました。氷室さんをはじめとした、先人の作家さんたちが声を大きくして文章を書き続けていてくれたからこそ、そのおかげで今があるんだなと思いますね」

―ご自身で、そういった経験はないですか?
町田「いえ、私は幸いにも一度もないです。でもそういう時代があったことは知っている。だからこそ、今、私が何のストレスもなく、悲しみもなく書かせてもらえているのだと思うんです。エッセイの『いっぱしの女』を改めて読んだときに、私が何か嫌なこととか耐えられないこと、これから先、これは許せないって思ったことがもしあったときは、私がそれを、声をあげて後進につないでいかなければいけないんだと思いました。そういう時代は今もどこかで残っている、廃れてないんですよね。だから、今だからこそ読んでほしいし、次の世代につないで考えてもらいたいなと思います。ただ、この作家っていう作業だけじゃなく、「女だから」って言われることは、私自身この自分の今までの人生で何回もあって嫌な思いもしてきました」

―人生のなかにはあったんですね?
町田「まあ、それなりに、でしょうか」


―町田さんご自身は、思春期の方たちを主人公にした作品は、ないですよね?
町田「ないです、ないです、ないんですよ。書きたいなとは思ってます。やっぱり氷室さんは憧れの方で、そこで育ってきたので、そのジャンルに飛び込むのはちょっとまだ勇気が要るというか。あと、「私はティーンエージャーを書ける年なのか、果たして」と思うところがあるんですよね。彼女たちのかけらがあれば、自分もそうであった頃を思い出して、何かそこから物語が紡げるんじゃないかとか思うんですけど、いざ若いティーンエージャーの高校生とか中学生の子を見たときに、ただ眩しいとか、そういう気持ちで、片鱗すら自分の中でつかめないという感覚があるんですよね。なので、本当に書こうと思えば、すごくそこの気持ちを自分の中でつくって書いていかなきゃいけないなとかは考えてますけど」

―大人になったからこそ書けることもあるけれども、その時期が離れていくことによって書けなくなることもあるということですか?
町田「そうなんですよ。あとは、主人公をティーンエージャーにしなくても伝えられるものっていうのはあるのかなと。なので、私なりの表現方法、私なりの伝え方っていうのを、今、模索はしてます」

―意地悪な質問かもしれないんですけど、伝えたいことがはっきりしていると、小説なり作品の醍醐味っていうのがなくなるという気もしませんか?
町田「あ、それはちゃんと答えを準備していて、イヤミスだって書くかもしれないじゃんって言ってます(笑)」

―(笑)
町田「本当に、書くかもしれないですよ。いろんなジャンルを書きたいと思っています。ホラーもミステリも書いてみたいですし。これまでは、声なき声を上げている人たちの生きづらさや、日々にちょっと行き詰まっている人たちの日常などを書いてきたつもりです。でも、いまある程度自分の中で伝えたいことは書けたのかなっていう気もしています。だからこそ、自分がこれまでチャレンジしなかった、私があえて書かなくてもいいだろうと思って避けていたものにチャレンジしていきたいと考えるようになっていて、試行錯誤している最中です」

―面白そうです。
町田「そうでしょう?(笑) そうでしょうって言っちゃった。誰かの背中を押すのも大事だし、誰かが読書をしている、その1時間ないし2時間を、「楽しい、面白い、何だ、この世界」って夢中になってもらえるのも大事だなって思うんです。なのでいまは、いろんなジャンルを書きたいという方向にシフトしてます。これまでは自分の中に、たぶん溜まってたんですよね。「こういう気持ちも分かって」とか、「こんなに苦しい人もいるっていうことを知って」とか、「私はあなたの気持ちに寄り添いたいよ」とか、たぶんそういう気持ちで書いてたと思うんですけど、何かやっと作家として、読者をもっともっと楽しませたいという気持ちも湧いてきたような気がします」

―ありがとうございました。

(札幌放送局ディレクター 山森 英輔)

■北海道道「没後15年 氷室冴子をリレーする」再放送
 7月1日(土)午前9:00~9:27<総合・北海道>
 【MC】鈴井 貴之・多田 萌加 【出演・語り】酒井 若菜

■「没後15年 氷室冴子をリレーする」43分拡大版
 7月9日(日)午後1:05~1:48<総合・北海道>
 【出演・語り】酒井 若菜
※放送後NHKプラスで配信  ←道外の方も全国から視聴できます!

▶「没後15年 氷室冴子をリレーする」 特設サイト

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