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大韓航空機撃墜事件から40年 次世代への継承は

  • 2023年9月12日

40年前の9月、世界に大きな衝撃を与えた「大韓航空機撃墜事件」。当時32歳だった父親を亡くした男性は、父と同じ年齢になった10年前から改めて事件を意識しはじめたといいます。歳月の流れとともに遺族の高齢化が進み、亡くなった人も多くいます。残された者として事件の記憶を次の世代にいかに継承していくか、男性はいま模索を続けています。
(稚内支局・奈須由樹)

大韓航空機撃墜事件とは

東西冷戦のさなか1983年9月1日、アメリカ・ニューヨーク発韓国・ソウル行きの大韓航空の旅客機が、本来の飛行コースを大きく外れて旧ソビエトの領空を侵犯。サハリン・モネロン島沖の日本海上空で旧ソビエト軍の戦闘機に撃墜されました。日本人28人を含む乗客乗員269人が犠牲になりました。

現場に最も近かった稚内市には事件直後、各国から乗客の家族などが駆けつけましたが、冷戦中ということもあって、遺体や遺品がかえることはありませんでした。遺族たちは市が手配したフェリーで現場近くの海に向かい、海上で花束をささげて追悼しました。その後、日本人の犠牲者28人の遺族は遺族会を立ち上げて、事件の真相究明や賠償を求め続けてきました。事件から40年。いまだに、なぜ旅客機が飛行コースを大きく外れたのか、その理由は明らかになってはいません。

歳月とともに進む遺族の高齢化

歳月の流れとともに遺族の高齢化が進み、亡くなった人も多くいます。こうしたなか、事件の記憶を次の世代にいかに継承していくか、模索を続ける男性がいます。兵庫県の山口真史さん、年齢は42歳で、遺族会の最年少です。

撃墜事件で当時32歳だった父親の正一さんを亡くしました。2歳だった山口さんは父親の顔も事件についても覚えていません。母親は事件について口にすることはありませんでした。山口さんが事件と真正面から向き合うようになったのは、父親が亡くなった年齢32歳になった10年前のことです。きっかけは事件で息子を亡くした陶芸家の岡井仁子さんの活動でした。岡井さんは事件の記憶を伝えようと、犠牲者の遺体や遺品の一部が流れ着いた稚内市などの海岸で作品を焼き上げる「野焼き」を行っていました。3年前、2020年に亡くなるまで生涯、事件と向き合い続けました。

山口真史さん
「岡井さんの体調が悪かったので、頼りきりだと遺族会の運営がこの先、難しくなると感じていた。私は30年間遺族会に関わってこなかったが、岡井さんの活動をきっかけに、自分にできることは何か考えるようになった。兵庫で塾を経営していたので、私らしいスタイルで遺族会に関われないかと考えた」

事件の記憶を伝えるために… “語り部”活動始める

そこで始めたのが事件の記憶を伝える“語り部”活動です。ことしは稚内市内の高校生たちに事件の概要や遺族としての思いを語りました。

山口真史さん
「旅客機が撃墜され、乗客乗員269人が海に落ちていって亡くなった。目の前に父親の遺体があればその死を認めざるをえないが、この事件は違った。遺体も遺品もないので、遺族としての悲しみをどこにぶつければいいか。このしんどい気持ちをどこに向ければいいのか。ソ連が悪いのか、国に気持ちをぶつけろって、どういうことなのか」
「事件の証拠はあるが、非常に乏しいし、少ない。事実と言われていることと、たぶんうそだろうと言われていることと、確証がないなかでどっちかを信じないといけない。となったら、遺族の心情としては生きていてほしいとなるじゃないか」

40年の歳月が過ぎても、いまだ
もんもんとした気持ちを抱え続けている遺族の心境を吐露しました。
そして、最後に自らの思いを語りました。

山口真史さん
「撃墜事件で遺族がこんな苦しみにあったということだけを知ってほしいわけではない。若い皆さんには、この事件をきっかけに平和とは何か考えてほしい。国が掲げる正義にはいろいろな見方があるということを知ってほしい。きょうの話を聞いて、何か感じるものをちょっとでも持って帰ってもらって、日常で生かす何かを自分のなかで育ててくれたら、いちばんうれしい」

山口さんの話に高校生たちが感じたことは…。

稚内大谷高校1年
「遺体や遺品が自分のもとに帰ってこない話を聞いて、モヤモヤというか、最後は会いたかったという気持ちが伝わってきた。今の平和な生活が当たり前ではないと改めて考えさせられました」

稚内大谷高校2年
「きょう初めて撃墜事件を知った。私たちが正しい情報を伝えられるように努力していきたいと思った」

事件の資料をデジタル化 次世代へ残す

さらに、山口さんは事件から40年を節目に遺族会の会報誌など事件についての資料をデジタルで保存する取り組みを始めました。会報誌を読み返すと、▼犠牲者の遺体や遺品を遺族のもとにかえすよう旧ソビエトに求める訴えや、▼慰霊施設「祈りの塔」の建設費用を募るお知らせなど、事件当時の遺族の心境や動きがよく分かります。

この遺族会の会報誌を山口さんは自身のブログで公開。今後は遺族会のホームページを立ち上げて、会報誌のほかにも遺族文集など資料を保存・公開していく考えです。

山口真史さん
「残された遺族も私も年をとります。資料をデータで残しておけば、事件の記憶がずっと残り続ける可能性がある。次の節目、事件から50年にあたる10年後にかけて取り組んでいきたい」

“伝え続けるのが使命”

会報誌で建設費用を募っていた「祈りの塔」は、事件から2年後の1985年(昭和60年)に現場海域を望む宗谷岬の高台に建てられました。集まった寄付はおよそ1億円、折り鶴をモチーフにしたデザインで、犠牲者の人数と同じ269の御影石で作られています。また、塔のそばには犠牲者全員の名前が刻まれた石碑もあります。毎年、「祈りの塔」の前で追悼式典が行われますが、ことしは雨のため会場は別の屋内施設に変更されました。それでも、この塔に足を運び、犠牲者に祈りをささげる遺族もいました。

岡井仁子さんが慰霊の象徴として14年間続けた「野焼き」は、稚内港の岸壁に並べた灯ろうに火をともして霊を慰める催しに形を変えたものの、ことしも執り行われました。

事件の記憶を語り継ぐ世代が確実に少なくなるなか、新たな取り組みを始めた山口さん。事件の記憶を伝え残すことをみずからの使命と考え、活動を続けていきます。

山口真史さん
「時がたち事件の風化が進むなか、遺族としてやらなければいけないことがたくさんある。世界に目を向けると平和とは決して言えず、撃墜事件の教訓が生かされているか疑問に感じるときもある。世界が平和になるように、気持ちを新たにして頑張っていきたい」

2023年9月12日

<奈須記者が書いた過去記事>
北海道南西沖地震から30年 語り部を続ける元消防士

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