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「没後15年 氷室冴子をリレーする」

  • 2023年6月21日

第4回 氷室さんの功績に、もう一度、光をあてたい ~書評家/ライター・嵯峨景子~

ことし6月で、亡くなってから15年になる、岩見沢出身の作家・氷室冴子さん。 かつて読者だった作家や友人、編集者のインタビューリレーから、氷室冴子さんの作品が放つ力と、人生をたどります。第4回は、書評家/ライターの嵯峨景子さんです。
※取材の様子は、6/23(金)午後7:30から「北海道道」で放送します(NHKプラスで全国からご覧いただけます)。

嵯峨景子(さが・けいこ)さん
1979年生まれ、札幌出身。2019年に、研究書として執筆した『氷室冴子とその時代』を出版。主な著作に『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』『少女小説を知るための100冊』などがある。


-嵯峨さんは2019年に『氷室冴子とその時代』を出版されていますが、氷室さんが亡くなって時間が経過してから、改めて着目された理由はどこにあったのでしょうか?
嵯峨景子さん(以下、嵯峨)「2016年に初めての著書『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』という本を出しました。50年間の少女小説の歴史をまとめた本なんですが、これを書いているときに、氷室冴子の功績はすごく大きいなと改めて気づきました。それなのに書店に行っても、氷室さんの本は全然並んでいない。氷室冴子の再評価と復刊を後押ししたいと思ったのが動機のひとつです。それから、氷室さんは少女小説が広く知られていますが、それ以外にも多彩な仕事をされているんですよね。氷室冴子=少女小説だけではない作家の姿を描きたいと思いました」

『氷室冴子とその時代』は、ことし6月に増補版を出版される予定


―氷室さんの作品は累計2,000万部以上売れているわけですけど、何が人々の心を惹きつけていたというふうにお考えですか?
嵯峨「氷室さんのメインの読者層は中高生の女の子で、キャラクターの造形やストーリーなどに彼女たちの心をつかむキャッチーさや面白さがありました。さらに小説家としての高い技量もあって、物語としての普遍性も兼ね備えている。だからこそ、一時的に消費される作品では終わらず、長く読まれ続けてきたのだと思います」


―2010年に雑誌『ユリイカ』で『吉屋信子から氷室冴子へ 少女小説と「誇り」の系譜』をお書きになっていらっしゃいますが、ここでキーワードにされてらっしゃる「誇り」ということについて、嵯峨さんの見立てを含めて、教えて頂けますか。
嵯峨
「あの原稿では、吉屋信子という、氷室さんよりかなり前の世代の作家と氷室さんを並べて論じました。どちらも少女小説という仕事に対して真剣かつ真摯に取り組んでいる点に共通点があると思ったからです。2人とも作家として成功を収めて経済的にも自立しているし、小説の主人公にも彼女たちの自立心や作家としての矜持が投影されていて、そこを「誇り」という言葉ですくい取りました。もう1つは、読者側の視点というのでしょうか。氷室冴子の本や吉屋信子の本を読むと、すごく心を励まされたり、キャラクターと一緒に泣いたり笑ったりできて、私自身もそうやって物語に救われてきた経験があります。そのような作家と読者の関係を含めて、「誇り」というのは象徴的な言葉になるのではないかと考えました」

―ご著書では、氷室さんを形づくったものとして、少女漫画の重要性も指摘されていますが、この影響についても教えて頂けますか?
嵯峨「氷室さん以前のジュニア小説と呼ばれる作家たちの素養は文学がベースにありました。それに対して氷室さんたちは、少女漫画を子供の頃からたくさん読んで育った世代です。少女漫画を通じて学んだ感性や物語づくりが、彼女の作品に大きな影響を与えています。例えば代表作として知られる『なんて素敵にジャパネスク』は、平安時代を舞台に「瑠璃姫」という主人公が活躍する物語です。この作品を書くときに、氷室さんは小丸栄子(こまる・えいこ)という漫画家のコメディセンスを参考にしたとインタビューで答えています」

―氷室さんが少女小説を書き始められてから、『クララ白書』、そして代表作『なんて素敵にジャパネスク』に至るまでの流れを教えてください。
嵯峨「氷室さんは、1977年に『さようならアルルカン』という作品でデビューされます。初期の『白い少女たち』などの作品は、文学少女の自意識を投影した、あまりエンターテインメント性の高くない小説でした。その後、氷室さんは藤女子大学を卒業するも就職が決まらず、職業作家として生きていくことを決意します。そのために多くの女の子の心をつかんで売れる作品を書く必要に迫られて、作風をがらりと変え、『クララ白書』という青春コメディが生まれました。『クララ白書』のキャラクターは、読者の女の子たちが共感できる造形で、生き生きとした口語をしゃべっています。『クララ白書』には、同時代の少女漫画の話題がたくさん盛り込まれているのも特徴です。こうしたディテールが少女たちの支持を受けて、氷室さんは以後も女の子のためのエンターテインメント小説を切り開いていきました」

嵯峨さんは、萩尾望都さんの『トーマの心臓』について、氷室さんが書いた評論も発掘した


―氷室さんは少女小説ブームや少女小説の商品化に違和感を覚えていたことも指摘されていますね?
嵯峨「氷室さんがデビューされた頃は少女小説という言葉が死語で、ジュニア小説や青春小説という言葉が使われていました。氷室さんは、その古びた少女小説という言葉をあえて打ち出して作品を書かれたんですね。『クララ白書』には吉屋信子をはじめとする古い少女小説へのオマージュが入っていますし、『少女小説家は死なない!』という作品では自分自身と少女小説というジャンルをパロディ化しました。ところがこの作品がきっかけで、少女小説という言葉がキャッチーなワードとして注目を浴びてしまうのです。当時のコバルト文庫は氷室さんや新井素子さんをはじめ、若手作家たちの活躍によってどんどん売上げを伸ばしていて、少女小説という言葉が販促に使われるようになりました。おまけにその後、本来は多様だった少女小説が、“女の子が主人公の一人称ラブコメ”といったテンプレート化したイメージで世間に認識されていきます。こうした状況に対して氷室さんは、後に苛立ちや違和感などを表明されたりもしました」

―ある枠の中に自分の作家性を押し込められるということでしょうか?
嵯峨「作家性というより、やはり少女小説というジャンルの扱われ方への違和感だったのかなと思います。こうした違和感とあわせて、氷室さんは少女小説を書く女性の作家が、出版業界のヒエラルキーの中で最下位に位置するということもエッセイの中で告発されました。商業的な成功を収めていても、一人前の作家とみなされなかったり軽んじられたりする構造が当時はあったようです」

―今よりももっと自立する女性に対するいろんな心ない言葉や刃が向けられて、生きづらかったのだろうと思います。
嵯峨「そうですね。氷室さんは自分自身が傷ついたり違和感を持ったことをエッセイで言語化されていて、その代表格が『いっぱしの女』だと思います。冒頭で「少女小説って処女じゃないと書けないんでしょう」みたいなことを男性インタビュアーに言われたという衝撃的なエピソードが出てくるのですが、女性と仕事と社会について語った、非常に今読んでも面白いエッセイ集です」

―エッセイの『ホンの幸せ』で、自分が対等に扱われない苦しさや、自由に生きる主人公をだんだん書けなくなっていくみたいなことも書かれています。嵯峨さんはどう捉えていらっしゃいますか?
嵯峨「男性編集者と話をしていても、向こうが対等な仕事相手としてみなしてくれなかったというエピソードですよね。氷室さんは商業的に成功された作家で多くの読者に支持されているのに、特に男性の、氷室さんより上の世代の編集者たちは、彼女が仕事として言っていることを女の子のわがままみたいなふうに捉えて、きちんと相手にしないという不均衡な状況があったようです」

―それはやはり、作家として、個人としての氷室さんを傷つけていたと思われますか?
嵯峨「そうですね。傷ついていたのは、恐らく氷室さんだけではないと思います。その中でも氷室さんは、私はこういう目に遭った、傷ついたというのを、きちんと言葉にされて発信をしました。今でこそSNSなどを使って以前より声を上げやすくなりましたけれど、当時の女性、特に少女小説を書いている作家が声を上げることは、非常に難しい時代だったと思います。それでも氷室さんは、『いっぱしの女』であったり、あるいは『ホンの幸せ』に収録されているフェミニズムに関するエッセイの中であったりと、と自分が傷ついたり苦しんだことを書き残しています。1990年前後くらいの早い段階で、そういった女性の理不尽な扱われ方について声を上げたのは先進的だったし、すばらしいことですよね。声を上げることで、世の中を少しずつ変えていきたいという氷室さんの思いがあったのではないでしょうか」

―エッセイを読んでいると、本当に現代にも通じることがたくさんあるなと感じます。アクチュアルなことを非常に早くから書かれていたということに、かなり驚きました。
嵯峨「氷室さんは、小説家としてももちろん高い技量をお持ちですが、エッセイストとしてのものすごい才能があるんですよね。『いっぱしの女』は、そういった今にも通じるアクチュアルな問題を提起されていますし、結婚をめぐる母と娘の戦いを描いた『冴子の母娘草』もすさまじく面白いです。エッセイから氷室冴子に入るというのもアリだと思うので、小説は読んだことない、興味がないという方も、ぜひ氷室さんのエッセイに挑戦してほしいです」

氷室さんのエッセイは、嵯峨さんの声もあり、近年、復刊が相次いでいる


―画一的な少女小説というくくりから、氷室さんは抜け出したいと思っていらっしゃったんでしょうか?
嵯峨「80年代後半ぐらいから一般文芸での仕事が増え、コバルト文庫でもそれまで多かった少女主人公のコメディ路線の作品が減り、少年主人公物が増えていきました。この時期は少女小説ブームで疲弊し、これまでずっと氷室さんが関心を傾けてきた少女というモチーフと距離を取りたくなったのかなと感じました。そして新作長編を発表しなくなった90年代の後半以降は、かつてのような感覚で少女小説を書くことができなくなって、新しい作風やテーマ、文体を模索されていたのではないでしょうか。」

―それはどうしてなんでしょう?
嵯峨「うーん。なかなか難しいところではありますが、根っこのところで少女というモチーフに対する関心を失っていたわけではないとは思います。ただ、氷室さんは、その時々の自分の身体感覚に合うテーマや文体を選ばれているので、そのときは少女というモチーフと氷室さんが今書きたいものや時代がうまく噛み合わなかったのかもしれませんね」

―作家としての次のステップを模索されていたのでしょうか?
嵯峨「模索されていたと思います。その一つが90年代にコバルト文庫で発表した『銀の海 金の大地』という、14歳の少女・真秀を主人公にした古代日本が舞台の歴史ファンタジー小説です。残念ながら本作は未完で第一部までしか出ていませんが、現代を舞台にした物語では表現できない、苛酷な運命にさらされながらも生き抜いていく女の子の姿を描いています。氷室さんの『古事記』への関心がうかがえる作品で、大人の読者にもぜひ知ってほしい名作です」

―氷室さんは、90年代半ば以降からだんだん作品を発表されなくなっていきます。ものすごく書かれていた時期から比べると、かなり減っていって、最終的に書かれなくなるわけですが、この変化を、どう捉えていらっしゃるでしょうか?
嵯峨「96年に『銀の海 金の大地』シリーズの、結果的に最終巻になってしまった11巻が出るのですが、これが彼女の新作長編としては最後の仕事になってしまいました。それ以降は2000年ぐらいまで、80年代に出した旧作のリライト、アップデートして新たに出し直すという仕事に取り組まれていきます。その後は、完全に表舞台から遠ざかる休筆期間に入ります。この時期に氷室さんが何を考えていたのかに迫るのは難しいのですが、小説を書きたくても書けなかった、あるいは作品を書き上げられなかったのではないかと私は考えています」

―そういうふうに捉えられるようになったのは、どうしてですか?
嵯峨「氷室さんと当時交流のあったご友人のお話によると、小説を書くことから完全に離れていたわけではなかったようです。ただ書こうと取り組んではいるものの、作品は完成しなかったとか。この頃の氷室さんは40代に入り、大人の女性を主人公にした恋愛小説を書きたいと言っていたそうです。小説への意欲はあっても、そのときの自分の関心と噛み合う物語が書けなくて、水面下でずっと模索をされていたのではないでしょうか。氷室さんにもっと時間があればその模索は実を結んだのかもしれませんが、2005年に肺がんが発覚し、その後は闘病に専念されて2008年に亡くなられてしまったのが本当に残念です」

―たくさん書かれていた時期もあって、物語を生み出すストーリーテラーとしての才能があったにもかかわらず、そんなふうに書き上げられなくなるということも起こるんですね。
嵯峨「氷室さんは著作自体は少なくはないけれど、当時の少女小説の平均ペースだった三ヶ月に一冊コンスタントに新刊を出し続けるタイプではなかったです。その分一冊一冊がものすごく売れて、長く読まれていましたが。これも取材を通じて分かったのですが、氷室さんは作家としては相当遅筆だったようです。だから、作品をたくさん出していた時代もスケジュール的には厳しかったり、こういう本を書きますと編集者に口約束したのに結局出せなかったという話は、昔からあったようです。そんな氷室さんがある時期以降、新作を出せなくなったのをみると、一ファンとしてつらい気持ちになることがあります。特に『銀の海 金の大地』は、氷室さんが古事記の中で一番思い入れのある「沙本毘古(さほびこ)の叛乱」というエピソードを書くための物語でもあったのですが、それが登場する第2部を書き上げられないまま亡くなりました。書きたい物語があるのに書けない苦しさを想像すると胸が痛くなりますし、氷室さんの中でもきっといろいろな悩みや葛藤があったんだろうなとも思います」

―エッセイで、『銀の海 金の大地』の主人公である真秀(まほ)が自立していくまでに6冊分がかかったと書かれていました。自分が自立している人間として認められている実感が、大人になればなるほど持てなくて、実感がないものは書けないので、真秀をここまで来させるのに6冊分かかったと。社会的な状況の中で、自立した女性を書くということが難しくなる感覚があったのかなと、感じました。
嵯峨「なかなかそこは難しいところですよね。氷室さんは商業的に成功された作家で、もちろん経済的にも自立されていたけれど、母親からは一人前の女性として認められていなかったという悩みをずっと抱えていました。それはなぜなのかというと、結婚していないからです。氷室さんのお母様は、どんなに氷室さんが作家として成功しても、結婚していないというその1点だけで娘を認めることができなかったようです。そのあたりの顛末は『冴子の母娘草』に詳しいですが、お母様との結婚をめぐる確執が、氷室さんの一人前の女性であるっていう自尊心を満たさなかったというか、傷つけていたのかもしれませんね」

―どれくらい傷ついて苦しんでいたんだろうというのは、想像に余りあるなと思いまして。
嵯峨「そうなんですよね、彼女の葛藤は外部からは見えづらくて、でも作家の根っこにあるすごく重要なところじゃないかなと考えています。『氷室冴子とその時代』の増補版では、氷室さんの担当編集者に追加取材を行い、新作を発表されなくなった時期の氷室さんの状況についてもお話いただきました。氷室さんは2005年に「月の輝く夜に」という、90年に発表した短編の加筆版を雑誌『コバルト』に発表しました。これが氷室冴子復活のきっかけになるはずで、新刊の話も進んでいたようですが、その直後に肺がんであることが判明し、以後は闘病生活に入られて作家としての活動が終わってしまいます。空白期間を経て復活の足がかりをつかんだところでさらにご病気という経緯を思うと、本当に胸が苦しくなりますね」

-何に葛藤していらっしゃったんでしょう?
嵯峨「いろいろなことだと思いますが、やはり作品を書き上げられないという葛藤はあったのではないでしょうか。あとは、氷室さんは一般文芸とコバルト文庫の両方で活躍されていましたが、2000年代は、コバルト文庫をはじめ少女小説出身の女性作家たちが直木賞を取って注目されていた時代なんですね。山本文緒さん、唯川恵さん、角田光代さん、桐野夏生さんなど、皆さん少女小説出身です。ただ、そうした作家の方たちは、少女小説を卒業と言っていいのか、レーベルから離れて完全に一般文芸に軸を移して、そこで広く評価されているんですよね。だけど、氷室さんは、コバルト文庫のようないわゆる少女小説のフィールドでも書き続けようとしていた。その立ち位置ゆえに、もしかすると出版業界や文芸を扱うメディアにおいて作家として一段低く見られていたんじゃないのかなと。これは、氷室さんの悩みや葛藤というよりも、増補版のための追加取材を通じて周りの方たちや編集者の話を聞いたときに、私が感じたことです」

-書けない葛藤みたいなことは、もうなかなか…
嵯峨「氷室さんのご友人たちにもかなり取材をさせてもらったんですが、作家・氷室冴子ではなく友人・氷室冴子として付き合っていたそうです。本当に親しくしていたご友人でも、仕事の話はほぼ聞いてないっていうふうにおっしゃっていたので、仕事上の悩みはあまり周囲の人たちには言わずに自分の中で抱えていたのかもしれませんね。氷室さんは創作ノートを作っていたようなのですが、そういうものは一切残っておらず、書きかけの原稿なども亡くなる前に全部処分されたようです。そんな姿を潔いなと思いつつ、創作の過程や悩んだことをもっと残してくれてもよかったのにとも考えたりします」

嵯峨さんの近著の装丁は、氷室冴子さんが手がけた『角川文庫マイディアストーリー』のオマージュ


-そもそもなのですが、少女小説というのはどういう経緯で生まれて、どう発展し、今はどういう状況にあるのかというのを教えていただけるでしょうか?
嵯峨「話すとかなり長くなってしまうのですが、簡単に言うと、明治期に少女を読者対象にした少女小説と呼ばれるジャンルが誕生しました。それが連綿と形を変えながら続いています。氷室冴子さんの大きな功績は、少女小説にエンターテインメント性を持ち込んだことでした。以後たくさんのヒット作がうまれ、コバルト文庫や、講談社が創刊した講談社X文庫ティーンズハートを中心に、80年代に少女小説は大ブームを巻き起こします。80~90年代にかけて少女小説は大きな市場を築きましたが、2000年頃を境に、中高生の女の子が読むもの=少女小説という図式がだんだんと崩れ、読者層が少しずつ高年齢化していきました。なので、今、少女小説を読んでいるのは大人の女性です。そして2010年代後半に入ると少女小説市場の縮小が進み、レーベルや雑誌の廃刊や紙版の発行停止が続きました。コバルト文庫も今は新刊は紙では出ず、電子書籍のみです。そういった状況の中で、ライト文芸やウェブ小説にかつての少女小説的なエッセンスが浸透、拡散して引き継がれているように思います」

-文学の中のヒエラルキーとして、少女小説を低く見るような目線があったということを指摘されることもありますが、でもその見方が見失っているものってありますよね?
嵯峨「男性の識者や評論家は、あまり少女小説のことを触れない、書かないことが多いですね。私はそれを、一段下に見ているというよりも、そもそも視界に入ってないんだと捉えています。読まないし、関心もないから、そういったジャンルがあるということすら見落とされて、そこでの功績や作品が全然語られないまま来てしまっている。その結果、少女小説は周縁化され続けてきたのだと思います。なので、少女小説というジャンルが築いてきたものをたくさん人に知ってほしくて、自分の仕事を続けているというところがあります。ただ、私の仕事もかつて少女小説を読んでいた方たちには評価していただけるのですが、そもそも少女小説に関心がない層や男性の知識人・文学関係者には全然届いていません。この壁をどう乗り越えていくか、壊していくのかが、自分の中でずっと課題になっています」

-男性の識者や評論家の視界に入っていないところで、少女小説が読者たちに手渡してきたものって、何だったと思いますか?
嵯峨「すごくふわっとした言い方ですけど、女の子の夢でしょうか。そのときそのときの女性たちの関心やときめき、そして欲望が作品に如実に投影されていると思います。今だとイケメンに溺愛される小説がものすごくはやってるんですね(笑)。昔の少女小説では、主人公がひどい目に遭う波乱万丈の物語も出ていたけど、今は1人の格好良いヒーローにヒロインが溺愛される物語が支持を受けています。今の世の中は辛いことが多いし、フィクションの中では厳しい現実を忘れられるような設定が好まれているのかなと考えていたりもします」

-現在は少女小説と呼ばれるジャンルだけではないところに、少女小説のエッセンスが浸透してきているのではないかと感じますが、その歴史の中で氷室さんの小説というのは、イケメンに溺愛されるみたいな小説では全然なくて…
嵯峨「(笑)。今の時代に氷室さんが生きていらっしゃったらどんな物語を生み出したのか、個人的に興味があります。少女小説はその時々の女性たちの心に寄り添い、でもただ単に寄り添うのだけではなくて、もっと広い世界を見せてくれる物語だと私は思っています。その象徴の1つが氷室冴子さんの作品ではないでしょうか」

-やっぱり勇気というか、自由というか、自立というか、そのあたりに彼女の力点ってあるんじゃないかなと思うのですが、改めて氷室さんという作家の個性について教えていただけるでしょうか?
嵯峨「そうですね。いろいろなタイプの物語を書かれていますが、主人公が自立心を持って自らの人生を切り開いていこうとするのは氷室作品の特徴です。『銀の海 金の大地』のようなドラマチックな作品であれ、ごくごく日常的な中高生の学校の中の世界であれ、非常に丁寧に人間心理を描いていますよね。若者文化は時代とともに移ろいますが、氷室さんの作品に描かれた人間の悩みや葛藤などは時を超えた普遍性があり、それは今も色褪せません。どの主人公もそれぞれの信念があって、その描き方がすばらしいし、読んでいると何か励まされる気がします。女性の背中をそっと押してくれる、勇気づけてくれる、そんなところが氷室さんの作品の魅力だと思います」

-ありがとうございました。

(札幌放送局ディレクター 山森 英輔)

■北海道道「没後15年 氷室冴子をリレーする」再放送
 7月1日(土)午前9:00~9:27<総合・北海道>
 【MC】鈴井 貴之・多田 萌加 【出演・語り】酒井 若菜

■「没後15年 氷室冴子をリレーする」43分拡大版
 7月9日(日)午後1:05~1:48<総合・北海道>
 【出演・語り】酒井 若菜
※放送後NHKプラスで配信  ←道外の方も全国から視聴できます!

▶「没後15年 氷室冴子をリレーする」特設サイト

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